コラム
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『ジャームッシュのチカラ』(No.254/2006.12.29)

2006年最後の配信です。あっという間ですね。本年もご覧いただきましてまことにありがとうございました。
今年もいろんな映画が公開されましたが、昨年に引き続き相変わらずドキュメンタリー作品、もしくはそれに準ずる作品が多かった気がします。また、邦画はあまり観ないのですが、何となく邦画も若干息を吹き返しつつあるような気もします。とは言え、世の中で話題になるということや興行成績がいいということと、いい映画かどうかは全くの別問題なのですが。
今年、印象に残ったのは、『クラッシュ』『ホテル・ルワンダ』『ブロークン・フラワーズ』『ジャーヘッド』『ミッドナイトムービー』『ボブ・ディラン:No Direction Home』あたりでしょうか。しかし、ホントにジム・ジャームッシュ監督(『ブロークン・フラワーズ』)ははずしませんねー。彼の作り出す映画のおかげで、私の人生は確実に楽しくなっていると思います。DVD買おうかなあ。
今年公開されたものではありませんが、パソコンを作った個人のドキュメンタリー『ターネーション』のDVDが観られたのも印象的でした。世界はゆっくりと私たちを締め付け、呼吸を止めようとします。そんな世界を変える唯一の方法は、自分が変わること。とても簡単で難しい置換。変われなければ、夢に希望を抱いて眠りにつくしかありません。暴力が拡散する今の世の中で、夢の欠片を最後まで拾い集めることはできるのでしょうか...。

ちなみに、全然関係ありませんが、今回の映画紹介のために『アパートメント』を久しぶりに観たのですが、どうもギャスパー・ノエ監督の『アレックス』を観て以来、モニカ・ベルッチの姿を画面で見るたびに、あの映画の中で描かれていた悪夢のシーンが思い出され、”嫌”な気分になります。私と同じくモニカ・ファンの人で、『アレックス』をまだ観ていない方いらっしゃいましたら、今後もずっと観ない方がいいかもです。ギャスパー・ノエ、恐るべし。

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『全景』(No.253/2006.12.22)

東京都現代美術館で開催中の『大竹伸朗 全景 1955-2006』を観ました。”現代美術の最先端で、常に躍進を続けてきた画家、大竹伸朗のはじめての大回顧展”です。
村上春樹氏の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)に、”圧倒的なものへの憧憬”を語る女性が登場しますが、まさに今回の展覧会は、作品の質・量ともに”圧倒的”。東京都現代美術館の企画展示室の全フロアを使い切った壮大な展示は、丁寧に見ていたら滞留時間は果たして何時間になるやら...。
いろいろと考えさせられることがありましたが、最も強く感じたのは”歴史”ということ。人は誰でも歴史を作っています。日々の積み重ねがそのままその人の歴史となります。おそらく、その歴史を自らの情と念にしたがって意図的に作る人が”アーティスト”と呼ばれる人たちなのではないかと。そんなことを考えました。

歴史は過去の積み重ねです。将来に目的を持ち、目標を定めても、その通りに行くとは限りません。実際、その通りのプロセスと結果が実現できたとしても、おそらくその期間は数ヶ月から数年単位。多く見積もっても10年先ぐらいのものなのではないでしょうか。それ以上先に目標を設定しても、おそらく人間にはコントロールできないのではないかと思います。もちろん、だからこそ人は生きていけるのだとも言えますが。
ポール・オースター原作の映画『スモーク』で、街のタバコ屋の店主が毎日同じ時間にシャッターを切る行為をずっと続ける様子に共感する人が多いのも、それが確実に歴史を作る作業であるからではないでしょうか。
生きることは歴史を作ること。アーティストならずとも、何かを”遺す”という作業が人間の本質的な欲望の中に組み込まれているのでしょう。さらに大竹伸朗さんの場合は、ただ単に一生懸命”遺し”ているのではなくて、”しっかりと漂いながら”作業している感じが強さを感じさせます。
編纂が遅れていて予約受付中となっている、この展覧会の図録が欲しいと思ったのですが、約1,100ページで重さが約6kg、価格は税込6,300円とのこと。このボリュームも半端じゃない。さすが。
果たして自分の歴史は振り返るに値するや否や。

・『大竹伸朗 全景 1955-2006』公式サイト
http://shinroohtake.jp/index.html


『何がおかしい』(No.252/2006.12.15)

先日、中島らもさんの『何がおかしい』(白夜書房)という笑いの評論集&コント集を買いました。税込2,800円という金額に一瞬たじろぎましたが、諸般の理由により放送されなかったラジオトーク番組のCD付。らもさんのアコギによる弾き語りも入っているとのこと。借金してでも買わなきゃ。

今や日本人なら知らない人がいないと思われるタモリ氏は、折にふれ「”笑い”は閉鎖的な空間、状況で生まれる」というような意味の発言をされていました。中島らも氏はこの本の中で「笑いは差別的構造を持っている」とおっしゃっています。
言うまでもなく、人間は誰でもいずれは”死ぬ”存在です。そのことにみんなが絶対的なリアリティを持ってしまったら、そもそも”笑う”ことなどできないでしょう。そういう意味では、人間が笑うためには何らかの状況や構造が存在したり、必要とされたりするのは必然と言えるのかもしれません。
『何がおかしい』には、月刊誌『論座』(朝日新聞社)にてらも氏が連載していた『笑う門には』というタイトルの評論が”すべて”掲載されています。”すべて”というのは、これまた諸般の事情により掲載されなかった、未掲載の原稿も含まれているという意味です。
この未掲載の原稿がやっぱりすごい...。基本的には自由な表現を制限し、コントロールしようとする大手メディアに対する批判なのですが、その他の笑いをテーマにした原稿とは一転、圧倒的な密度でメディアの膿を切り裂いています。ああ、この人は本当に本気で戦い続けていたんだなあと。
その稿の最後はこう締めくくられています。「もう書くのを止めて酒を飲もうと思う。明日のために。ほんとうに腹の底から笑える、明日のために。カンペエ。清志郎にも富士夫にも、ついでにあなたにも、乾杯」。
らも氏の小説「今夜、すべてのバーで」(講談社)ではありませんが、今夜もこの一文を読んで、何百、何千という人が涙していることでしょう。

あらゆる人にもう少し優しくなるために、あらゆることを他人事と片付けないために、乾杯。

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『良い病院、悪い病院』(No.251/2006.12.08)

年齢を重ねることによってだんだんと判ってくることがあります。それは時に楽しい瞬間であり、時に悲しい瞬間でもあります。最近、また一つわかりました。良い病院と悪い病院の簡単な見分け方です(笑)。
私は1週間ほど前から風邪を引いて苦しんでいます。まるでハバネロ大王がバカンスを過ごしているのではないかと思うほどの喉の痛さを抱えていて、あまりの咳に夜眠れないこともしばしば。
思えば最初に熱が出たときがたまたま木曜日で、行きつけの病院が休みだったことが凶でした(ちなみにそこは土・日も営業している良心的な病院です)。それで駅の近くの病院に初めて飛び込んだのですが、あまりよくない対応で、その後薬を飲んでもほとんどよくならなかったのです。もちろん、身体を休めずにずっと働いていたことも大きな原因だと思いますが。
今回のことで、私は良い病院を見分ける簡単な方法を見つけました。あらためて確認した、と言う方が正しいでしょうか。

ちなみに、”良い病院”の検索で見つけた「治る.com」というサイトに病院の見分け方が書いてありました。
【良い病院】
・カルテのコピーをくれる ・検査データやX線写真のコピーをくれる ・治療内容の説明を文書でくれる ・セカンドオピニオンを快く認める ・苦情処理の対応がきちんとしている ・何種類もの薬を出さない ・看護師や病院職員の対応が良い などなど。

【ダメな病院】
・トイレや病院内が不潔 ・主治医がよく代わる ・非常勤医師が多い ・無理に入院させようとする ・付け届けを簡単に受け取る などなど

薬の種類などについては、少ない方が良いのかどうか判断しづらい部分もありますが、治療内容の説明を文書でくれるとか、看護士や病院職員の対応が良い、というのはわかる気もしますね。良い病院で血液検査や点滴を受けると、針を刺すときに痛くない、何てこともよくあります。いや、それほど頻繁に病院にかかっているわけではありませんが。

で、私が考える良い病院の条件。他にもさまざまな要素がありますが、まずは”診察時間が長い”ということ。もちろん、病院自体が閑散としている場合を除きますし、やたら長ければいいというわけではありません。しかしながら、病気の原因というものはさほど単純でない場合が多いので、いろいろな状況を想定すると、やはり説明も必要になって、ある程度の診察時間になるのではないでしょうか。
病院に入る前に判らないと意味がないじゃないか、というご意見もあるかもしれませんが、病院も人間も見た目だけではなかなか判断できないんですよね...。ということで、皆さんも風邪にはお気をつけください。


『スーパーエッシャー』(No.250/2006.12.01)

東京・渋谷にあるBunkamuraザ・ミュージアムで開催中の『スーパーエッシャー展』を見ました。エッシャーはだまし絵で有名なオランダの版画家。日本人なら誰でも一度は彼の作品を目にしたことがあるのではないでしょうか。
”ある特異な版画家の軌跡”と銘打たれた展覧会は、日本初公開となる手書きの制作ノートの展示があったり、エッシャー作品を表紙に使った60年代〜70年代に出版された「少年マガジン」の展示があったり、いろいろと盛りだくさんの内容です。ちなみに当時の「少年マガジン」は「あしたのジョー」や「巨人の星」などの大人気作を連載していて、出版部数は100万部だそうです。...すげえ。

エッシャー自体は好きなアーティストでしたが、さほど詳しいことは知らず、日本で過去に行われた展覧会も見たことはありませんでした。それだけに、習作から遺作まで、展示されている作品のオリジナリティ、美しさにとにかく圧倒されっぱなし。
中でも最も感動したのは、最後の方に展示されていた、エッシャーが実際に使っていた道具。ガラスごしに見えるその道具たちは驚くほどシンプル。ずっと手に握られていたことによる黒ずみが歴史を感じさせるものの、ある種のか弱さすら感じさせるものでした。しかしながら、数々のエッシャー作品、世界をひっくり返し、人々を驚かせたその作品群はまさに彼によって、その道具たちによって生まれたのです。テクノロジーが進化し続ける現代において、”創造性”とは一体何なのか、ということを改めて考えさせられました。
コピー&ペーストが当たり前の時代、コラージュ、サンプリングが当たり前の時代、本当の意味でモノを作る、作品を作る、ということはどういう営みなのか。エッシャーはあくまでもクラフトマンシップを大切にしていたとのこと。テクノロジーのおかげで必要以上に自分の能力を肥大化させてしまっている私たちにとって、エッシャー作品はある意味で”警鐘”のようにも思えてきます。

エッシャー展は2007年の1月13日まで開催されています。お見逃しなく。
・スーパーエッシャー展公式サイト(http://www.ntv.co.jp/escher/
・Bunkamuraザ・ミュージアム(http://www.bunkamura.co.jp/

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『記憶の断片』(No.249/2006.11.24)

”記憶”の”断片”がつながる瞬間というのがあります。と言っても、もともと一つだった記憶とは限りません。さまざまな場所、さまざまな時に経験した記憶がなぜかつながるのです。そして、それがまた新たな記憶を作り出します。その瞬間の気分の高揚と快感。それは、私たちが生きていくために必要なモチベーションとしての”記憶”を、脳が勝手に作り上げているだけかもしれません。それでも、自分にとってある種の”美しさ”を持つ”記憶”というものは、私たちに生きる力を与え、希望を与えてくれます。
アンドレイ・タルコフスキー監督の映画は、私にとって新たな記憶を作り出すための映像を提供してくれているような気がします。決して自分がそこにいたわけではないし、いたはずもないのですが、何か、自分がかつてその風景を知っていたであろう気分にさせられるのです。
記憶がなければ私たちは自分を自分と認識することすら出来ません。クリストファー・ノーラン監督の『メメント』ではありませんが、記憶は”ある”だけではなく、”連続”していなければ、社会生活を行うことも困難です。タルコフスキー監督の『ストーカー』において、延々とトロッコで線路の上を走る長回しのシーンで感じる郷愁。『鏡』で描写される雨が醸し出す、かつて自分がどこかで感じた雨の冷たさと優しさの入り混じった質感。それは芸術性を突き詰めた結果得られる普遍性なのでしょうか。いずれにしても、そういった情景や音のひとつひとつが、なぜか自分の人生においてとてつもなく大切なものに感じられるのです。

現在、東京・吉祥寺のバウスシアターで『没後20年タルコフスキー特集+セルゲイ・パラジャーノフ作品』の上映が行われています。ご興味のある方、ぜひ(この情報を教えてくださった稲松さんに感謝)。

・没後20年タルコフスキー特集+セルゲイ・パラジャーノフ作品
 2006.11/18(土)─12/8(金) 吉祥寺バウスシアター
 (http://www.baustheater.com/tarkovsky.htm


『New Life』(No.248/2006.11.17)

前回、前々回に引き続き、さらにつながり書籍の紹介です。

・『フォトドキュメンタリーNIPPON』(発行:ガーディアン・ガーデン)
本作は、ガーディアン・ガーデン(リクルート)が主催するフォト・ドキュメンタリー「NIPPON」という写真プロジェクトに選考された15人の写真家たちの作品をまとめたもので、友人・鷲尾和彦氏の「極東ホテル」シリーズの作品が掲載されています。結構なボリュームのある写真集で、15人の参加者それぞれが独自の視点でNIPPONを切り取っていて面白いです。ここで表現されているのは、ある意味”リアル”な日本の姿なのかもしれません。
※鷲尾氏のサイト(http://www.washiokazuhiko.jp/


・『youngtreepress』(発行:ヤングトゥリープレス)
写真家・若木信吾さんが主宰する雑誌『youngtreepress』の最新号が発売されました。この雑誌は個人の視点による物語を集めたもので、写真と文章を大切に扱ったドキュメンタリースタイルのマガジンです。最新号のタイトルは『New Life』。魔女に会いに行く女性の話がぐっときました。表紙のデザインも思い切りがよくて、かっこいいです。
若木さんが祖父・琢次さんをテーマに撮った初監督作となる長編映画『星影のワルツ』も来年公開予定。精力的だなあ。
※youngtreepressのサイト(http://www.youngtreepress.net/


・『spore Vol.4 "そしてわたしは恋をする”』(発行:スポア)
『spore(スポア)』は、さまざまなジャンルを越えた、新しい形の作品を集めた本。最新号となるVol.4のテーマは「恋愛」。”小説、写真、マンガ、エッセイ等による「物語」の視点からアプローチすることにより、「恋愛」という言葉にリアリティを生み出すことを目指したいと考えました”とのこと。かなり幅広い層のクリエイターの作品が集められていて楽しいです。表紙にも使われている笹俣房子さんの写真が特に気に入りました。
とりあえずオンライン販売とのことなので以下のサイトからどうぞ。
※スポアのサイト(http://www.spor-e.com/

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『アンビエント・ドライヴァー』(No.247/2006.11.10)

前回に引き続き、ちょうど読み終わったつながり書籍の紹介です。
細野晴臣さんが連載されていたエッセイをまとめた『アンビエント・ドライヴァー』。といっても、細野さんご自身とつながりがあるわけではありません(笑)。出版元であるマーブルトロンの木下社長からご紹介いただいたんです。本作は9月29日に初版、翌月の17日には第2版発行ということほどの売れ行きらしく、また個人的にはYMOチルドレン(?)の部分もありますので、早速買って読んでみたのですが、これが面白かったです。

まず、タイトルがいいですよね。アンビエントやミニマルなものが好きな方は、このタイトルだけで買ってしまう人も多いはず。さらに内容に関しても、バランス感覚が絶妙なんですよね。エピソードとしては、横尾忠則さんと一緒に円盤を呼んだ話とか、霊現象の体験談などの、スピリチュアルなものもふんだんに出てくるのですが、かといって、現実世界(そういう世界の対極としての、という意味ですが)から離れすぎておらず、絶妙の位置で語られるので、細野さんの考え方や感じ方がリアルに心に入ってくるんです。
また、小さい頃のエピソードで、トランプを時計の文字盤のように並べて行う一人遊びについても、私もまったく同じことをやっていた経験があるので、思わず笑ってしまいました(うまくいかなければ”ああ、僕は死んじゃうんだ”と思うところも同じ)。
現代の社会や世界についてちょっとアイロニーを感じさせる語調が多いですし、パニック障害やうつ病のような経験など、重さを感じさせる部分もあるものの、自己の内面を掘り下げる際に客観性が失われていないため、読んでいて非常にこちらも穏やかな気分になれるんです。
読み終わってすぐ、とりあえず細野さんと高橋さんのユニット「スケッチ・ショウ」のアルバムを聴きなおしました。これやった人、多いのでは?(笑)。

・『アンビエント・ドライヴァー』(著:細野晴臣/マーブルトロン)


『トリュフォー、作法、アート』(No.246/2006.11.03)

個人的につながりのある方々が、最近出版された本をご紹介します。
みなさんそれぞれの分野で活躍されていて、いつも刺激をいただいています。どれも素晴らしい内容ですので、ぜひ。

・『フランソワ・トリュフォー』
(著:アントワーヌ・ド・ベック、セルジュ・トゥビアナ、訳:稲松三千野/原書房)
以前、このメルマガでもお世話になった稲松三千野さんが翻訳を手がけられています。本書は『カイエ・デュ・シネマ』元編集長が、トリュフォーの書簡やメモ、関係者の証言などの膨大な資料に基づいて書き上げた決定版的評伝。上下2段、500ページを越えるボリュームと密度の濃さは圧巻。まだちゃんと読めていないです。ごめんなさい...。
※稲松さんのサイト(http://members.aol.com/Inamatsu/


・『グルメ以前の食事作法の常識』(著:小倉朋子/講談社)
”食育”をキーワードにフードプロデューサー&コーディネーターとして活躍していらっしゃる小倉朋子さんの最新著書。知っているようで知らない食事作法について、実践的でわかりやく書かれています。前作『箸づかいに自信がつく本』(リヨン社)も日本人なら必読です(笑)。
それにしても”食育”って、今の時代、子どもだけでなく、大人にも(大人こそ、かな?)必要とされている気がしますね。
※小倉さんのサイト(http://www.rr.iij4u.or.jp/~ogu/


・『東京・街角のアート探訪』(編著:佐藤曠一/日貿出版社)
グラフィック・デザイナーの佐藤曠一さんが取材・編集まですべて手がけたパブリック・アートのガイドブックです。東京23区のパブリック・アートが全5巻に分けて紹介されています。その数、各巻平均600点。”何に対しても好奇心旺盛に感性鋭くすることで、豊かな時間が過ごせる”という佐藤さんの姿勢そのままに、街を、アートを、日常を楽しむためのバイブルです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4817081058/sr=1-2/qid=1162482599/ref=sr_1_2/503-7954568-5327934?ie=UTF8&s=books

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『メディアのいじめ』(No.245/2006.10.27)

福岡県筑前町の町立中学校で、2年の男子生徒がいじめを苦に自殺した問題が連日メディアで報道されています。仕事柄、午前中にテレビでニュースを見ることも多いのですが、毎日流れているのは被害者のご両親が担当の教諭を大声で罵倒するシーン。
この教諭は現場経験が長いものの、悪ふざけが多かったとのことで、クラスの生徒を成績に応じてイチゴの品種になぞって序列化したり、生徒から受けた相談内容を同級生に暴露したり、太っている女子生徒に「豚」と言ったりしていたらしく、罵倒されるのはしょうがないと思うのですが、それでもこれだけ毎日このシーンだけを見せつけられるとさすがにウンザリしてきます。で、気持ちが萎えるだけではなくて、「なぜご両親がいじめに気づけなかったのか?」と疑問が沸いてくるのです。

もちろん、いじめを助長した担当の教諭や隠蔽しようとした校長など、言語道断であることに間違いありません。しかしながら、個人的には、たいした経験も積まないまま社会に放り出され、いきなり”先生”呼ばわりされる人たちにはあまり多くを期待しないタイプなので(もちろんちゃんと職務を全うされている先生方の方が多いと思いますが)、それはそれとして、やはりご両親がどれだけ子どもから”聞き出す”努力を日々されていたのか気になるのです。これに関しては「全然気づかなかった」とコメントされていただけでした(というか、そういう報道のされ方でした。これはこれで疑問)。実際、自殺した本人は悟られないように努力していたと思いますので、周りにいてもなかなか気づけなかったところはあると思いますが。いずれにしても少なくとも本件に関してメディアがちゃんと伝えなければならないことは、もっと他にあるはず。そうでなければ、本当にこの”死”が無駄になってしまうと思います。


『マドンナの記録』(No.244/2006.10.20)

2007年版のギネスブックで、それまで地球上でもっとも稼ぎの多い女性歌手として登録されていたブリトニー・スピアーズの記録を塗り替えたマドンナ。そのマドンナが養子問題で世界を騒がせています。彼女はアフリカ南部マラウイの男児を養子縁組する申請をしたのですが、マラウィで非居住者による養子縁組は法律で禁じられており、マラウイの人権団体「アイ・オブ・ザ・チャイルド」が養子縁組の差し止め命令を裁判所に求めたというもの。結果的に、今のところ同国の裁判所はマドンナの申請を暫定的に許可したようですが、他の市民団体などからも「有名人の身勝手ではないか」と批判も出ているようです。

今回の事件の是非はさておき、マドンナの音楽的、社会的影響力が未だに衰えないのはすごいことだと思います。1958年8月16日生まれですから、もう50歳近いのですが...。
ちなみに彼女が初めてニューヨークにわたった時、タクシーに乗って運転手に「この街の中心で降ろして」と言い、タイムズ・スクエアに降り立ったというのは有名な話。その時の所持金がわずか35ドルだったというのですから、まさにアメリカン・ドリームですね。
個人的にはマドンナのデビュー当時から80年代の間はよく聞いていました。90年代に入ってからはほとんど聴いていませんが、それでもここ最近の数枚のアルバムは、テクノ寄りのアプローチを見せたり、政治的なメッセージを含んだり、骨のある音を聞かせてくれてしかもかっこいいです。
実は映画もたくさん出演しているんですよね。『A CERTAIN SACRIFICE(邦題=堕天使)』(1979)という日本未公開作品から始まって、彼女自身のツアーのドキュメンタリー作品なども含めると30本近くにもなります。ただ、映画ではワースト作品に送られるラズベリー賞の常連でもあり、なかなか厳しい状況。それだけ注目されていると言うことかもしれませんが。それでも『エビータ』ではゴールデン・グローブ賞の女優賞(コメディ/ミュージカル部門)に輝いたのですからたいしたものです。個人的にもいつか主演作品をレビューしたいと思いながら...やっぱり音楽を聴いているのがいいかなあと。
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『インサイドマン』(No.243/2006.10.13)

三軒茶屋映画館に行きました。本来なら『三茶二本勝負』シリーズとしてレビューを行いたいのですが、『インサイド・マン』は見たけれど、もう一本の『ミッション・インポッシブル3』が時間がなくて見られなかったので、とりあえず1本だけレビュー。

スパイク・リー監督の『インサイド・マン』。同監督初(?)のエンターテイメント作品という感じですが、リー・スパイスはちゃんと効いていますし、主要人物を演じるデンゼル・ワシントン、ジョディ・フォスター、クライブ・オーウェンが三つどもえの演技合戦を繰り広げていてとても楽しめました。個人的にジョディ・フォスター大好きなんですが、さほど露出(衣装のことではなく)が多い役どころではないものの、しっかりと印象を残してくれますね。ウィレム・デフォーの出番が少ないのは物足りなかったですが。時制を超えて挿入される取調べの映像が、『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』(2002)でのコントラストの強いモノクロを思わせるもので、かっこよかったです。
とりあえず全米興行収入でも1位になってホッとしたものの(まあ、数字自体はほとんど意味がないのだと思いますが)、ポスター内のスパイク・リーの名前の扱い方が小さかったり、日本では2004年に製作された『SHE HATE ME』(邦題『セレブの種』...)がしばらく公開されなかったり(やっと先月から公開されました)、さすがに以前ほどの認知度や影響力がなくなってきたのかなと思うと心配になってきます。90年代の後半にはちょっと微妙な作品もありますが、今でもこれだけのクオリティの作品を生み出し続けていること自体すごいのに。黒人やニューヨークに立脚したスパイク・リーもいいですが、こういう作品も悪くないです。全米でさまざまな論議を巻き起こしたという『セレブの種』にも期待しています。
でも今後も『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)を越える作品を期待するのは無理なのかなあ。

・『インサイドマン』(http://www.insideman.jp/
・『セレブの種』(http://www.celeb-tane.com/


『プリンタ選び』(No.242/2006.10.06)

何かこういう話題は面白くないだろうなあと思いながら、それでも悔しいので書くんですが、プリンタの話です。
先日、家で使っているプリンタが突然壊れました。まだ買って1年ぐらいです。その前のプリンタも買って一年ぐらいで故障しました。最近のプリンタは値段が安くなったのはいいんですが、その分壊れやすくなった気がしますね。そんなことないのかな。
プリンタにしろデジカメにしろ、基本的にパソコン関係の製品は、大体半年から1年落ちぐらいを買うことが多いです。値段も下がっているし、最近は技術革新が早いので、間違いなく以前使っていた機種より性能が上がりますからね。で、今回も、あまり深く考えずに半年落ちぐらいの新品を買ったんです。CDに直接ラベル印刷が出来るという、前の機種にはない機能もあるので、少なくともがっかりすることはないだろうと。で、買ってみて、がっかり...。

プリンタのインクには顔料系と染料系があって、一般的には文書等の文字印刷は顔料系、デジカメ等の写真印刷は染料系が適していると言われています。個人的には文書印刷が多いので、顔料系を使ってきましたが、今回買ったのは染料系のインクを使用した機種。それでも最近はそれぞれのインクの質も上がってきていてほとんど差がない、というようなことを聞いたことがあったので、さほど気にしていなかったんです。
ところが、新しい機種で最初に文書を印刷して、前の機種でプリントしたものと比べてびっくり。その差は歴然。うむー、そうだったか。実際それ以外の機能は満足しているんですが、このインクに関しては、まだまだ違いがあると思いました。プリンタの購入をお考えの方は、ご一考された方が良いかもです。文書印刷を重視される方は、少なくともブラックに関しては顔料系を使っているものをお選びになった方が無難だと思います。まあ、もちろん実用には何ら問題ないクオリティではありますが、以前と比べると...やっぱり悔しいなあ。

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『安倍内閣始動』(No.241/2006.09.29)

今週、いよいよ発足した安倍内閣。朝日新聞の緊急世論調査では内閣支持率は63%とのこと。毎日新聞の調査では67%、読売新聞では70%に達しています。内閣の支持率が高いと言うのは悪いことではないと思いますが、安倍内閣誕生で、個人的にはこれでまた憲法改正に一歩(十歩?)近づいたのかなあと心配に思っています。

個人的に憲法改正については、「やむなしの面はあるけれど第9条は別」。改憲・護憲という二元論は置いておいて、国民一人一人にインタビューすれば結構こういう意見が多いのではないでしょうか。やっぱり、第9条に書かれている戦争放棄は世界的にもまれな内容だと思いますし、また被爆国の日本だからこそ説得力もあるだろうと。何より、一度この条文を削除、ないしは全く逆方向に改正してしまったとすると、二度とこのような内容で復活することはないだろうと思うからです。

自民党のホームページには憲法に関するページがあり、そこで第9条について、「現在は、国際テロリズムや北朝鮮の拉致事件などがあり「憲法9条を世界にPRすれば平和になる」というような状況ではないのです。国及び国民の安全が確保できるような憲法9条の改正をする必要があるのです」。とあります。私も単純に武力放棄の素晴らしさを唱えることにあまり意味はないと思いますし、そういう思想はどちらかというと理想論的な感じも否めません。しかし、それも9・11以降少し変わった気がします。アメリカはあれだけ強大な武力を持ちながら、結局テロを防ぐことは出来ませんでした。武力を誇示することが威嚇にもならなかったわけです。その後の報復(?)の際にはそれなりの威力を発揮したようですが。
第9条を世界にPRするだけでは平和にならないかもしれませんが、武力を持ってしてもそれは同じでしょう。もちろん、武力を持たない以上アメリカ(とは言いたくないのですが)や国連に頼らざるを得ないでしょうし、そこで”何を””どれだけ”協力するかは難しい問題です。それでもやはり武力を持つことにどんな意味があるのか、疑問を持ち続ける必要があるのではないかと思います。

・自民党−政策パンフレット
http://www.jimin.jp/jimin/kouyaku/pamphlet/index.html

・九条の会オフィシャルサイト
http://www.9-jo.jp/


『ターネーション』(No.240/2006.09.22)

映画に関するホームページをやっていると、普通の人よりたくさんの映画を見ていると思われることが多いですが、私の場合は、少なくとも映画館で映画を観る本数で言うと”並”だと思います。なので、「あの名作を観てないの?」とか「あれ観てないのはやばいよ」とか言われることもしばしば。一年以上前に公開されながらやっとこさDVD化された『ターネーション』。これも観ていませんでした。やっと観れた。

アップル・コンピュータのパソコンに付属の映像編集ソフト「imovie」を駆使して製作されたことでも話題になったこのドキュメンタリー作品、制作費はたったの218.32ドル。日本円で約2万円ですね。うむー。監督はジョナサン・カウエット。美しかった母の心の病、ゲイである自身の過去等、監督自らの人生を綴った映像詩。ここ数年、日本でも個人の体験をベースにしたドキュメンタリー作品がたくさん作られていますが、やっぱりアメリカの闇は本物。涙が枯れます。

事故と薬で崩壊していく母親と、その母親を心から愛しながら、その後を追うことに不安を覚える自分。映画というよりも、監督が11歳から撮りためた映像の断片を集めたコラージュですね。監督自身が患っている離人症という、自己の乖離そのままのような映像。記憶は1本の糸にならず、ただ破片がつながっているだけ。ゆえに不安はなくならない。いくら自分探しをしても出てくるのはアメリカ社会の歪みばかり。憎悪が高まるにつれ不安も高まる。それでも出口のない日常を行き続ける地獄。安らかに眠ることだけを夢見る矛盾。
狂わされた母親、狂い行く自分。歯車は永遠にかみ合わないまま。「それでも世界は美しい」、と百万回唱えれば、ほんの少しでも世界は輝くのでしょうか。「それでも未来は素晴らしい」と信じることで人は救われるのでしょうか。...んなわけない。
まばたき2回分の長さでもいい、自分自身と真っ直ぐ向き合ったことのある人にオススメします。

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『見えない広告』(No.239/2006.09.15)

2006年9月13日付けの日経流通新聞(日経MJ)に「広告」に関する記事が載っていました。
”デジタルオーディオ機器の普及で「CMとばし」が横行する中、広告代理店は、ドラマの中に広告する商品が紛れ込んでいたり、ストーリーの延長が広告だったり、というさまざまな手法を編み出している”というもの。例えばテレビドラマの間のCMが、直接そのドラマのストーリー展開に関係している(もちろん登場人物もドラマと同じ)、とからしいです。”半信半疑で新手法を利用するスポンサー企業からは、効果を評価する声が出ている”そうです。
人間をテレビの前に釘付けにする術を日夜考え続けている人々がいる、と想像すると、それだけで結構怖いものがありますが、ご本人達はクライアントさんのために一生懸命やっていらっしゃるだけなのでしょうから、私がとやかく言うことではないのかも知れせん。それこそ大きなお世話か。

しかし、映画の中でよくアップル・コンピュータのノートブック・パソコンを見かけるというような例を持ち出すまでもなく、何年も前からコンテンツなのか広告なのかわかりづらいものは増えていますし、これからもどんどんその方向性は強まるのでしょう。つまり、「広告」がどんどん見えなくなってくる。そう考えるとこれも怖い。知らない間にいろんなものを強制されている社会ってやだ。いかに広告であることを匂わせずに見させるか、というのは何か商品なりサービスを斜めから見せているような気がしてなりません。もっと正面きって勝負しないと結局はダメな気がするんですけどねえ。
私たち見る側も、広告を広告として楽しんだり、しっかり情報を見極めて、比較検討するチカラをつけたりしていかないとやばいことになりそうです。


『溝口健二の映画』(No.238/2006.09.08)

ちょうど明日9月9日(土)から、恵比寿ガーデンシネマを皮切りに、全国4ヶ所(東京・大阪・京都・札幌)において、映画祭『溝口健二の映画』が始まります。今年は溝口健二監督が病気でお亡くなりになってから50年にあたるそうです。

溝口健二監督は伝統的な”日本の美”を撮り続けた方で、1952年の『西鶴一代女』から『雨月物語』『山椒大夫』と3年連続ヴェネチア映画祭受賞という偉業を成し遂げ、その名が世界に知れ渡りました。世界的に知名度の高い日本人監督と言うと、小津安二郎監督や黒澤明監督がまず頭に浮かびますが、いろんな監督に影響を与えたと言う意味では、まったく引けをとらないと思います。
上記映画祭のホームページにも、「ベルナルド・ベルトリッチは『ラスト・エンペラー』撮影中に「ミゾグチ!ミゾグチ!」と口走っていた」(ちょっと意味不明ですが...笑)とか、「『山椒大夫』のラスト・ショットは後年ジャン=リュック・ゴダールが『気狂いピエロ』で引用した」等の見出しがあります。
私もかなり昔、アンドレイ・タルコフスキー監督が何かのテレビ番組でインタビューに応えているシーンを見たのですが、溝口監督から影響を受けたと語っていたのを覚えています。実際、溝口監督の作品を観始めたのはそれからでした。

さらに映画祭のホームページには、”溝口の影響を口にする作家”として、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、アキ・カウリスマキ、アンドレイ・タルコフスキー、ジャック・リヴェット、テオ・アンゲロプロス、ヴィクトル・エリセとそうそうたる顔ぶれが羅列されているのですが、ほとんど自分が好きな監督なんですよね。でも、溝口作品はそんなにちゃんと観たことがないので、この機会にまとめて観たいと思います。実際はほとんどいけない気がしますが。
スケジュール等は下記サイトでご確認ください。

・映画祭「溝口健二の映画」
http://www.kadokawa-herald.co.jp/mizoken/

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ヨ・ラ・テンゴ』(No.237/2006.09.01)

アメリカのバンド『ヨ・ラ・テンゴ』の約3年半ぶり、通算11作目の最新アルバムが発売されたので買いました。大好きなんですよねー。タイトルは『I Am Not Afraid Of You And I Will Beat Your Ass』。日本語で書くと『アイ・アム・ノット・アフレイド・オブ・ユー・アンド・アイ・ウィル・ビート・ユア・アス』。ながーい。

自分の心に響くものとかずっと好きであり続けるものとか、音楽でも映画でも小説でも、実は意外と”言葉”で表現するのが難しい気がします。『ヨ・ラ・テンゴ』の音楽も「どういう音楽?」と問われるとなんと説明してよいのやら。ファンとしては、最新アルバムに関しては、今まで以上に幅広くいろんなものを取り入れていて、曲数もたくさんあるけれど、いつもの質感は損なわれておらず、とにかく素晴らしい作品なのですが、こういう風に言っても伝わりませんよねえ。しいて言えば、”ギターやオルガンがフィーチャーされた、ちょっとサイケデリックなロック”、と言うことになるのかもしれませんが、そんな言い回しではとてもとても...。まあ、説明に関しては私のボキャブラリーが少ないと言うことももちろんあると思いますが。
それにしても、ヒット曲があるわけでもないし、ものすごい美形キャラがいるわけでもない(ごめん...)。とてつもなく新しいことをやっているとも思えない(ごめんなさい...)。ジャケットとか中の写真とか、とてもベテランバンドとは思えない程ゆるゆる。なのにこういうバンドがもう20年以上も活動を続けていることが凄すぎです。やはりアメリカの音楽シーンや音楽ファンの成せる業なのでしょうか。

『ヨ・ラ・テンゴ』の良さを紹介しようと思ったのですが、ほとんど意味のない文章になりつつありますし、結果的にお伝えできることは「とにかく聞いてみてください」という陳腐な言葉しかないのですが、それでも、私は聴き続けるだろう、と言うことだけは断言できます。現在、公式ホームページの「AUDIO」のページから、最新アルバムの曲が無料で聴けるようです。ぜひ。

・『ヨ・ラ・テンゴ』公式HP(http://www.yolatengo.com/


『葉隠入門』(No.236/2006.08.25)

突然ですが、「初心忘れるべからず」。
いや、初心を忘れて失敗したとか、えらいことをしでかしたとか、特にそういう出来事があったわけではないのですが、元来いい加減で飽きっぽい性格なので、折にふれ、この言葉を心に刻むようにしているんです。

この言葉、世阿弥の晩年の著書「花鏡」にある言葉だそうで、現代では「習い始めのころの謙虚で真剣な気持ちを忘れてはならない」というような意味合いで用いられますが、本来はちょっと違うようです。”初心”とは、未熟で失敗ばかりの状態である”初心者”の”初心”と同じ意味で、どちらかと言うと「未熟であるがゆえに味わった悔しさや、そのために行った努力などを忘れてはならない」という意味合いだそうです。いずれにしても深みのある言葉。

なぜ、またこの言葉を思い浮かべたかというと、三島由紀夫の『葉隠入門』(新潮社文庫)を読んだからです。”初心を忘れるな”とは出てこないのですが、「三十歳を過ぎれば、とくに謙虚になること」とか「初対面のつつましさで付き合うこと」等、同じような意味合いの言葉がいくつか出てきます。
最近どうやら『武士道』や『葉隠』等、日本の伝統的な精神性に触れる書籍が流行っているようですね。ベストセラーとか流行にはほとんど興味がないのですが、さすがに書店に平積みになっているとつい手にとってしまいます。
で、ちょっと読んで見るとやっぱり面白い。
まあ、いずれも書かれていることは日本人にとってはほとんど”正論”みたいなもので、そもそも否定しようがないんですが、それでも『葉隠入門』には「子どもの育て方」「名誉と富に執着すること」「あがらない法」等、意外と幅広いテーマについて言及されていて楽しめます。
「大雨の戒め」では、”にわか雨にあって軒下に走っても、結局ぬれることにはかわりはない。はじめからぬれるものだと得心していれば、ぬれたとしてもなんら苦にならない。これはすべてのことに共通する心得である”、とあります。うーん、説得力あります。

ただ、やはり”武士としての心得”であることに変わりはなく、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という考え方が基本にあるので、「何事も、死ぬ気でやることだ」「死のうか生きようかと思うときは、死んだ方がよい」「毎朝、まえもって死んでおけ」等々、そのまま真似するととんでもないことになるアドバイスもあります。ほどほどに。

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『電話を携帯する』(No.235/2006.08.18)

久しぶりに携帯電話、というかPHSについて考えました。
以前勤めていた会社を退職する時にいただいたPHSを、ずーっと使い続けて早5年。いよいよ壊れたらしく、受信はすれどこちらの声が相手に聞こえなかったり、その逆の現象が起こったり。で、とうとう機種変更することにしたんです。
なぜPHSかというと、それは勤めていた会社の取引先との関係があったからで、地下でも結構使えることや、音質がいいことから、何となくそのまま使い続けていました。それにしてもPHSは機種が少ないですねえ。個人的には折りたたみ式よりもまっすぐの方が好きなのですが、そうするといきなり選択肢が2つに。でもって最終的に決めた機種は、外観的には5年の月日を全く感じさせないタイムレスなモノ。もちろん、機能的にはかなりアップしていますが、通話しかしないのであまり意味ないんですよね。

よく考えると、電話機はこの世に誕生してから100年以上経っていますが、携帯電話が出来てからまだ20年も経っていないんですね。日本で移動可能な電話機が初めて実用化されたのは、1979年の自動車電話だそうです。その後1987年にNTTが日本で初めて携帯電話のサービスを開始。次いで日本移動通信やセルラーグループが参入し、どんどん普及するに伴って小型・軽量化されてきた(こっちが先でしょうか?)と。
当初は加入も通話料も高かったわけで、一般的に普及してから、と考えるとまだ10年ぐらいなんですよね。だから、生まれた時から携帯電話が身近にあって、死ぬまで(寿命で、ということですが)使っていたなんて人はまだいないことになる。そう考えると、今、”携帯がないなんて考えられない”みたいな発言をテレビや雑誌でも聞くことがありますが、まあ、個人的にも仕事上はそういう部分はあるものの、実際はどうなんだろうと思いますね。意外とどの世代の人も、20年ぐらい使うと嫌になるんじゃないかな、何て。自分が年を取ったからかもしれませんが。
どこかで便利さを追求する日々のゆり戻しが来るというか、”便利さ”に”疲れる”ときが来るんじゃないかと。便利であるがゆえに疲れるとか、つまらないとかっていう境目というか分岐点って、意外と低い気がするけどなあ。今、普及しているPHSや携帯電話に詰め込まれた機能と、自分が求めている機能とにあまりにも激しい差があるのでそんなことを思いました。


『ミッドナイトムービー』(No.234/2006.08.11)

先般ちょっとご紹介した、伝説のカルトムービーの裏側を描いた『ミッドナイトムービー』を観ました。観れてよかった。泣かずに済みました。

個人的にはとにかくアレハンドロ・ホドロフスキー監督の『エル・トポ』の一部分でもスクリーンで体験できただけで満足なんですが、内容的にもさすがに面白かったです。
自分のやり方を貫き通すことによって得られる凄み、新しいものが生まれる時の熱、深夜という時間帯が作り出すカオス、作品を世に送り出す側の苦労、いろんな事を感じることが出来ました。
中でも印象的だったのが、観客が育てる映画というのが存在したということ。これは映画上映がそのまま観客たちが参加するショーになってしまった『ロッキー・ホラー・ショー』に顕著ですが、他の作品でも観客はその映画を支持し、2回、3回と劇場に足を運ぶことによって育ててきたといえるのではないかと思います。
これらの作品を当初メジャーな劇場で公開されなかったという意味でインディーズと定義すると、メジャーとインディーズの境界線は限りなくあいまいになってきていますが、今も昔も違うのは作家とオーディエンスとの距離感ではないかと思います。そういう意味で、ミッドナイトムービーは作品=作家と観客との一体感があります。そしてそこには深夜というある種普通の人々が活動しない時間帯での上映ということも少なからず影響していたのではないでしょうか。

また別の意味で感動したのは、大好きな監督デビッド・リンチの作品の特異性。これだけ個性的なカルト映画に囲まれても、やはりその存在感、異質さは群を抜いていました。すごい。さすがです。こうやって観ると、あの時代に『イレイザーヘッド』を撮ったリンチもすごいけど、その作品性を評価して上映した人たちもすごいなと。

今、日本でも映画のインディーズシーンでは、特に私的なドキュメンタリー作品が多く製作されていますが、みんな上映する場所がなくて困っているようです。もし自分が映画館を持っていたら、深夜にそういうのをドンドン上映するのになあ。もちろん、本当に世に出すべき作品かどうかを判断する目を持っていないと結局はダメなんですが。

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『三茶二本勝負・その3』(No.233/2006.08.04)

先週、”最近映画館に足を運んでない”と書いたばかりですが、がんばって三軒茶屋の映画館で2本立てを見ました(がんばって見る必要はないのですが...)。ということで久しぶりの『三茶2本勝負』レビュー。

まずは『Vフォー・ヴェンデッタ』。
先鋭的な映像で世界を席巻した『マトリックス』(1999)の製作チームが終結して作り上げた作品。モチーフとして使われている”11月5日”は、1605年にイギリスの伝説的ヒーロー、ガイ・フォークスが国会議事堂の爆破に失敗し、処刑された日付だそうです。イギリスでは有名だそうですが知りませんでした。
内容的には面白かったと思います。テンポもいいし、アクションシーンもさすがの出来。コミックがベースという軽さもあまり感じさせません。ただ、『マトリックス』と比較してしまうとさすがにおとなしい印象で、主人公のテンションや活躍が尻すぼみになってしまうところも残念。まあ単なるヒーローものを拒絶したという意味では よいところでもありますが。
第3次世界大戦によってアメリカがイギリスの植民地になっていたり、昔のアップル社のCM(「1984」)を思い出させるような体制側の描写があったり、設定・映像的に刺激的な要素は多いものの、管理社会や独裁政治の恐怖なんかはすでにちょっと時代遅れな感じも。
それでも、言葉へのこだわりはちゃんと伝わってきて、ところどころぐっと来る台詞がありました。「政治家はウソを語り、小説家はウソで真実を語る」「世界は変わるたびに悪くなってきた」なんて台詞がビシバシ。そういう言葉が響けば、心に残る作品になると思います。


次は『オーメン』。
1976年に公開されたリチャード・ドナー監督、グレゴリー・ペック主演の同名作の2006年版リメイク。オリジナルの方は子供の頃に見て”トラウマ映画”となっています。いや、怖かった。ホントに。なのでリメイク版は個人的には出来以前の問題。しょうがないです。
かなりオリジナルに忠実ですが、最大の失敗は現代に置き換えてリアリティを出そうとした点。2006年6月6日(666は悪魔の印)が来るから製作したという噂もあるぐらいでした。しかし、そういう視点がどうしてもこじつけにしか見えず、さらに映像と音で驚かすシーンの多用でよりチープな印象に。
オリジナルの怖さの大きな要因は、音楽や映像の効果もさることながら、やはり”運命には逆らえない”という暗示が伝わってきたこと。作中、人間は聖書に書かれた内容や写真に写った影等から、これから起こる不吉な出来事を予測できました。それでも運命は変えられず、結局は悪魔の思い通りになってしまう。そんな弱者としての人間や神が描かれたところが怖かったんです。だからこそ、オリジナルは今でも単なるオカルト作品を越えたところで評価されているのではないでしょうか。
ということで鑑賞後、少し不完全燃焼な気分になり、オリジナルの方をビデオで借りて見ました。って、自分でトラウマ逆なでしてどうする...。


『BOW映画祭』(No.232/2006.07.28)

また、ほとんど劇場に足を運べない状況が続いています。何だかんだ要領が悪いんでしょうね。実際、最近公開中の映画で食指を動かされる作品が少ないことも理由のひとつですが、企画モノでは見たい作品がいくつかあります。

ひとつは銀座「シャンテ・シネ」で開催されている『BOW(バウ)30映画祭』です。BOWというのは外国映画配給のフランス映画社が続けてきたシリーズ(ベスト(Best)、オブ(Of)、ザ、ワールド(World))のことで、今回、BOWで公開してきた中から、監督30人の代表作39作品を連続上映するもの。で、これがすごいラインナップなんです。
ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』から始まって、『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ監督)、『デッドマン』(ジム・ジャームッシュ監督)、『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー監督)、『ゲームの規則』(ジャン・ルノワール監督)、『サクリファイス』(アンドレイ・タルコフスキー監督)等々、きりがありません。えらいこっちゃ。もうすでに半分ぐらい終わってしまいました...。どれか1本ぐらい見なきゃ。タイムテーブルはWEBで公開されています(下記)。

もうひとつ気になっているのは、こちらは映画祭ではなくてドキュメンタリー作品『ミッドナイト・ムービー』。1970年代、時代が転機を迎える中で、抑圧された若者たちによって数々のカルト・ムービーが生み出されました。そんな時代を象徴するカルト・ムービーの裏側を捉え、実像をさらけ出したのがこの作品。
監督はテレビ・プロデューサーであり、作家としても数々のドキュメンタリー作品を制作してきたスチュアート・サミュエルズ。取り上げられる作品は『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー監督)、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(ジョージ・A・ロメロ監督)、『ハーダー・ゼイ・カム』(ペリー・ヘンゼル監督)、『ピンク・フラミンゴ』(ジョン・ウォーターズ監督)、『ロッキー・ホラー・ショー』(ジム・シャーマン監督、リチャード・オブライエン脚本・出演)、『イレイザー・ヘッド』(デビッド・リンチ監督)と、個人的にストレートなものばかり。これ見逃したら泣きます。多分。

いずれも8月中旬までの上映です。ご興味のある方、お見逃しなく。また、ご覧になった方、感想をお聞かせください。

・BOW30映画祭
http://www.bowjapan.com/bow30/
※上映されるほとんどの作品の予告編が見られます。

・ミッドナイト・ムービー
http://www.cinemacafe.net/special/midnight-movie/

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『団地ともお』(No.231/2006.07.21)

ここ数年、単行本が出ればすぐに買い、折にふれ繰り返し読んでいる漫画といえば『団地ともお』(小田 扉(おだ とびら)/小学館〜ビッグコミックスピリッツで連載中)です。
作者の小田扉さんのところで、ちょっとお手伝いをしたことのある知り合いから教えてもらったのがきっかけでした。”団地”が舞台ということと、タイトルから「ちょっと地味そうだなー」と思ったのですが(それまでは”繰り返し読む”と言えば、諸星大二郎、つげ義春関連や『寄生獣』『カイジ』等でしたから...)、実際読んで見て驚きました。いや、確かに地味は地味なんですが、リアルとファンタジーのバランスのよさと、今まで見たことのない話の展開に終わり方。新鮮でした。これって絶対アメリカ人(というか、日本人以外)にはわからないだろーなと。

主人公の小学生「木下友夫」のみならず、登場する人物すべてのバカさ加減と優しさ加減が絶妙で、独特の笑いの波が確立されているんですよね。団地+小学生がモチーフですが、懐かしいというよりも、いろんな意味で現代を感じさせます(ともおのお父さんの顔が描かれないとか、話の中心は大体大人の事情だったりとか)。
最新刊は早くも第7巻ですが、全くだれるところがないのもすごい。ますます面白くなっています。また、単行本1冊に1〜2話程度の割合で存在する人情ものが泣けるんです。大抵最後のコマでじーん、ときます。7巻にも父親からの遺産である「気球」「ヨット」「団地の一室」を譲り受けた3人兄弟の物語(『さあ、冒険だなともお』)があるのですが、これがまたくすっと笑わせて、スケールがでかくて、最後でじーん。この微妙な感じは漫画ならではな気がしますね。出来ればアニメとか映画にはならないで欲しい。

最近はコンビ二でもベスト版が販売されているようですが、ちゃんと成長するキャラクターもいますし、連続ものの”漫画内漫画”もありますので、出来れば単行本をオススメします。


『著作権と価格』(No.230/2006.07.14)

映画のDVDの著作権に関する”53年問題”に注目が集まっています。
「ローマの休日」など1953年(昭和28年)に公開された映画の格安DVDについて、パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーションが日本国内の販売会社に対し、販売差し止めを求めていました。
映画の著作権は、改正著作権法(平成16年1月1日施行)によって著作権保護期間が50年から70年に延長されているのですが、著作権法を所管する文化庁は、昭和28年公開の映画について「著作権保護期間が終了した平成15年12月31日午後24時と、改正法施行の16年1月1日午前0時は同時で、改正法が適用される」と説明、この見解が正しいかが争点となっていました。
しかしながら、今回の訴えに関して、東京地裁は同作の著作権は切れていると判断、パラマウントの申し立てを却下する決定をしました。裁判長は「(文化庁の説明は)同じ時刻を一方の日から見た表現。この時刻を改正法施行日ととらえると、著作権は消滅している」と説明。何か子供のけんかみたい...。

というわけで、とりあえず格安DVDが認められた形になりました。同じく28年公開の映画には、西部劇『シェーン』やSF『宇宙戦争』、小津安二郎監督の『東京物語』などがあり、買う側にとっては嬉しい結果。ただ、今回の著作権問題に限らず、映画のソフトに関しては昔から価格が大きく変わったり、変動したりするので何か不透明な部分が多い気がします。

例えば、ロシアのアンドレイ・タルコフスキー監督の名作『惑星ソラリス』は、現在国内版が6,090円(税込み)で販売されており、個人的にあまりの値段の高さに買うのをためらっていたのですが、そうこうするうちに、角川書店の創立60周年記念出版『世界名作シネマ全集』の一タイトルとして、『惑星ソラリス』になんとフランクリン・J・シャフナー監督の『猿の惑星』がプラスされて2作で3,480円(税込み)という商品が発売されました。まあ記念出版ということでいろいろ特別なのかもしれませんが、それでもちょっと...。よくよく調べると角川書店の方の『惑星ソラリス』は音声が「ロシア語モノラル」とあり、国内版では他の言語でもあるので、多少の違いはあるのかもしれませんが(角川書店のWEBでは、市販のDVDと同じと記載されています)、それでもちょっと...。

特にメジャーでない作品は、DVDも平気で5〜6千円台になるので不信感があるんですよね。そもそもビデオテープからDVDに移行する際に、ソフトウェアとしての生産コストがかなり下がるから値段が安くなる、みたいなことが言われていた気がするんですが、なかなか下がりませんでした。そのあたりの仕組みももっとオープンにして透明性を高めて欲しいなあと思います。

・角川書店 創立60周年記念出版(http://www.kadokawa.co.jp/meisaku/

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『外への欲望』(No.229/2006.07.07)

仕事柄、いろんな大学生と話をする機会が多く、それはそれで大変貴重なことだと思っていますし、実際、刺激的な体験でもあります。ただ、ちょっと気になるのは、私が大学生だった頃に比べると、「海外に行きたい」と熱く語る人が少ないなあと感じることです。統計を取ったわけではありませんので、あくまで”感覚的”な話なのですが。
最近は情報過多時代ですから、ひょっとしたらインターネットの普及やなんかで、テレビや書籍等のチカラを借りずとも、”外”の情報が簡単に手に入るようになってしまい、逆に、”外”に対するリアリティがなくなってしまったのではないかと、勘ぐってしまうのです。もしくは、身近にあるいろんなものが総エンターテイメント化してしまい、海外旅行は費用対効果で見劣りするようになった?
もちろん、世界的な治安が悪くなったことや、日本の景気が悪くなった(これに関しては、デフレで旅費は安くなっている気がしますが)こともあるのかもしれません。しかしながら、自分は海外に行って外から日本を見るという経験から多くのことを学んだと思っているので、「それでいいの?」なんて心配してしまいます。

あらゆることが、経験によってしか理解できないと言ってしまうと、身も蓋もありませんし、想像や思考からいろんな物事や人の心を理解することは可能だと思います。しかし、日本が世界の中で四方を海に囲まれていると言うかなり特殊な事情や歴史がある以上、やはり、若いうちに”外”に出て、いろんな文化に触れ、自分の価値観や世界観が壊されることは、とても大切だと思います。年を取るとなかなか今までの自分を壊せませんしね。そのあたりは自戒の意味も込めて、ですが。
そういえば、あるアナリストが何かの雑誌で、ブッシュ大統領と小泉首相の二人を並べて、いろんな意味で”壊し屋”だと表現していました。もちろん、とにかく壊せばいい、というわけではありません。言うまでもないですが。


『日本を磨く』(No.228/2006.06.30)

6月26日付の日本経済新聞のコラム『日本を磨く−美と徳を見つめて−』の初回に作家の五木寛之さんが登場。内面から日本を磨く道筋について言及されていました。
今の日本を「物質的には豊かだが、心貧しい国」と定義、一番欠けているものは「人間らしい感情」であり、「情感トレーニング、すなわち”養情”が大切」と説いていらっしゃいます。五木さんらしい情感あふれる言葉に共感しましたが、最も響いたのは、「今の日本は戦後最悪の状況にあると思う。人の命がこれほど軽くなった時代はないのではないか」という言葉。戦中、戦後を経験された方にとって、まさにそれが”実感”なのでしょう。

私がまだ大学生で月1万6千円のボロアパート(大家さん、ごめんなさい...)に住んでいたとき、ちょっと変わったおじいさんが管理人でした。年齢相応の”老人力”が備わった方で、例えば、冬に何人かでアパートの一人の部屋のコタツに入っていたところ、おじいさんがやってきて「やっぱりストーブがあるから集まっとるんやな」とラジカセを指差したり、私が部屋に鍵を閉めこんで(ノブのロックボタンを押してドアを閉めるタイプでした)、合鍵をもらいに行った際、「あんたのドアは合鍵がない、えらいことしてくれた、ドアを壊すしかない、どうしてくれる」と散々怒鳴り散らした後、すうっと奥に行き、「はい、これ」と何食わぬ顔で合鍵を渡してくれたり、他にも「1万円事件」や「そろばん事件」「フライパン事件」等々、このおじいさんのエピソードだけでも話は尽きないのですが、そんなおじいさんでも、その口からシベリアに抑留されたときの厳しい生活が語られると、私たちの心に戦争経験者の壮絶な人生が伝わり、おじいさんに対する尊敬と畏敬の念が芽生えたものでした。

今の時代に、お年寄りに対する尊敬が薄れてきているのだとすると、そういった経験談に触れる機会や状況が無くなってきていることが原因なのではないでしょうか。お年寄りに限らず、いろんな世代の人々が触れ合い話し合うこと、そんな当たり前のことがとても難しくなったり珍しくなったりしていることが、どれほど異常な状況なのか。それに気づくことが”養情”の第一歩のような気がします。

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『肝炎訴訟』(No.227/2006.06.23)

先週から今週にかけて、結果が気になっていた訴訟が2つあります。ひとつは、集団予防接種が原因でB型肝炎に感染したとして、札幌市の患者さんらが国に損害賠償を求めていたケース。もうひとつは出産時などに止血剤として使われる血液製剤「フィブリノゲン」でC型肝炎に感染したとして、患者さんらが国と製薬会社に賠償を求めていたケース。いずれも原告側の訴えが認められました。

このコラムでも何度か書いていますが、私自身、十数年前にC型肝炎を患ったことがあります。インターフェロン治療を行い、現在は一応完治した状態ですが、結局、感染した原因はわからないままです。当時の担当医さんの説明では、母子感染によるものやウイルスに感染している人との血液交換(集団予防接種で針を交換していない、性交渉等)等、が考えられるとのことでした。セカンド・オピニオンというほどではないのですが、他の病気で違う病院にいく度に、お医者さんに説明を求めましたが、基本的にはほとんど同じでした。
結局、自分の記憶の中には原因となる心当たりがないまま(いろいろ考えても特定のしようがありません)、結果的に治ったのでそのままにしていたのですが、何とも釈然としないまま今に至っています。

まあ、当時はやっとインターフェロンに保険が適用されたような時期で、病気そのものに関する情報も少なかった気がします。解明が進行中の病気を取り巻く状況とはそんなものなのでしょう。しかしながら、今回の訴訟のケースは別。本来感染するはずの無い人が感染してしまったわけですから。しかも、こういう問題では、大体において「国」や「企業」の思惑が絡んでいる場合がほとんどなので、許しがたいものがあります。ヤコブ病然り、AIDS然り。そういう意味で今回の結果は、いろいろと問題もある(製剤の投与時期で賠償に線引き−C型肝炎訴訟)ようですが、とりあえず良かった。

以前、企業を社会のリスクと捉えた映画『ザ・コーポレーション』を紹介しましたが、DVDが本日(6月23日)発売になるようです。いずれレンタルビデオ店にも登場するでしょう。肝炎等の病気に関するテーマはありませんが、遺伝子組み換え牛成長ホルモン薬品に関する、企業の隠蔽事件等は取り上げられています。ご興味のある方、ぜひご覧ください。

・厚生労働省/C型肝炎について
(http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou09/02.html)

・ザ・コーポレーション
(http://www.uplink.co.jp/corporation/)


『象の購入』(No.226/2006.06.16)

村上春樹氏の短編小説集『象の消滅−短篇選集 1980-1991』(新潮社)を買ってしまいました(前回コラム参照)...。
個人的にも好きな作品が結構網羅されていて楽しいです。かばんに入れっぱなしにするにはもう一回り小さければ...と思いますが、それでも装丁もシンプルで紙の質感も良いです。悩んで買っただけに嬉しい。
でもって、『レーダーホーゼン』の話。

再翻訳されたからと言って内容が大きく変わるわけではありませんが、それでも読み心地はそれなりに違った気がします。『回転木馬のデッドヒート』の方は、他人の心の中にある微妙な感情の揺れに、”僕”がそっと寄り添う感じなんですが、『象の消滅』の方は、日常の中に入り込んできた異形の物語に、”僕”の感情そのものが揺さぶられる感じです。
で、あることに気づきました、『回転木馬〜』の方は、最初に「はじめに・回転木馬のデッドヒート」として、著者自身による前書きがあります。前書きは「ここに収められた文章を小説と呼ぶことについて、僕にはいささかの抵抗がある」という言葉から始まり、それは「さまざまな人々から聞いた話を文章にした」からで、「このような文章を小説と呼ばず、仮に”スケッチ”と呼ぶことにしよう」、と続きます。そして、他人の話を聞くことが好きな自分が写し取った”スケッチ”は、小説に使い切れない”おり”のようなもので、その”おり”とは無力感のことである。我々がどこにもいけないというのが、この無力感の本質であり、それはつまりメリーゴーランドのようなものなのだ、と締めくくられています。
私が村上春樹氏の小説に惹かれる理由が、この前書きに凝縮されているのだと改めて感じました。そして、その後に続いて始まる『レーダーホーゼン』を、この前書きとあわせてひとつの作品として読んでいたのだとも思いました(ちなみに『回転木馬〜』の中では『レーダーホーゼン』だけが書き下ろし)。

私たちが現代社会で生活を続ける際に、自分自身の中に知らない間に積もり続ける”おり”があるのだとしたら、それはどこでどのような形で排出されるのか、またされないのか。その”おり”は、回転木馬に乗っている間は永久になくならないのかもしれません。

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『象の消滅』(No.225/2006.06.09)

小説が書店に並ぶサイクルには、何か私にはわからない順序やバランスがあるのだと思いますが、このところ近所の書店に去年発売された村上春樹氏の短編小説集『象の消滅−短篇選集 1980-1991』(新潮社)が平積みにされています。これは今まで英語圏で出版されてロングセラーとなっていた作品集の”日本語版”で、インタビュー等が新たに追加されたもの。発売されてからずっと買おうかどうか迷っていた作品ですが、基本的には初期の作品がほとんどなので、それぞれ収録されている単行本を持っているんですよね。だから内容がそのままなら買う必要は無いのですが、インタビューが追加されていたり、新たな訳で新バージョンになっている作品もあるんです。商売がうまいなあ。それでも買わずに今まで来たのですが、こうやってたくさん積まれていると...。しかも装丁がペーパーバックっぽくていいんですよね。う〜ん。

私は高校生の時にリアルタイムで『世界の終わりのハードボイルド・ワンダーランド』を読んで以来の春樹ファンですが、常に新作を待ち望み、出れば速攻で買って読む、という感じではありません。極端に言えば、『世界の終わりと〜』と『レーダーホーゼン』(『回転木馬のデッドヒート』に収録)の2作に出会えたことで満足しており、この2作があれば良いのです。かなり偏っていますね。しかし、小説に限らずどのような種類のものでも割とそういう付き合い方をするところがある気がします。もちろん他の作品も読んでいますし、中にはかなり好きなものもあります。しかし、結局は『世界の終わり〜』に出てくる”夢読み”や『レーダーホーゼン』の他人の話のように、社会や人間の感情に存在するぼんやりとした虚無の語り部としての村上春樹作品が好きなのかもしれません。

ああ、そういえば、『象の消滅』には『レーダーホーゼン』も収められていました。再翻訳された新バージョンで。うむー...。


『今村昌平監督死去』(No.224/2006.06.02)

カンヌ国際映画祭のパルムドールを2度受賞する等、世界的にも高く評価されている映画監督の今村昌平さんが、5月30日都内の病院でお亡くなりになりました。享年79歳。また一人巨匠がいなくなってしまった...。
小さい頃にテレビで放映されていた、緒方拳主演の『復讐するは我にあり』(1979)の淡々とした映像が紡ぎだす緊迫感はほとんどトラウマとなっています。当時はこれぞ邦画、という感じでした(今村監督作品ではありませんが、『鬼畜』(1978)とか、『砂の器』(1974)とかもありましたね)。後から考えると日本人の持つ湿り気のある静かな狂気が凝縮されていた気がします。
他にも『神々の深き欲望』(1968)や『楢山節考』(1983)等の土俗的で突き抜けた作品はもちろん、『赤い橋の下のぬるい水』(2001)のように、ちょっとシニカルでエロでユーモアを含んだ作品も好きでした。『赤い橋の下のぬるい水』を見たとき、「ああ、やっぱりフランス映画だなあ」と納得(?)した記憶があります。

私がもともとドキュメンタリー好きということもあるのかもしれませんが、今村監督の作品は、ただ単に手法としてのドキュメンタリーということではなく、人間の根源的な姿勢(単純に本能ということではなくて)を描いているという意味で、リアリティを感じます。常に何かを隠し、覆い、見ないようにしてきた私たちの社会。一方で、人間は、常にそういったものを探り当て、引き剥がし、見ようとします。その是非はともかく、少なくとも私たちはみなそういう生き物だということは間違いないのではないでしょうか。

ちなみに、一昨日、たまたまテレビ東京の番組『ワールドビジネスサテライト』を見ていると、最近”濃い”味付けの食べ物が流行っている、という話題を取り上げていました。現実と仮想の境界線がなくなり、より本能的、本質的なものが求められている時代なのだとすると、今村監督の作品群があらためて評価される気がします。

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『ブロークン・フラワーズ』(No.223/2006.05.26)

ジム・ジャームッシュ監督の最新作『ブロークン・フラワーズ』を観ました。かつてプレイボーイだった中年男が受け取った一通のピンクの手紙。開けてみると、かつての恋人であろう女性からで、19歳になる隠し子がいるとの内容。署名も住所も無く、誰からの手紙か見当もつかないが、探偵まがいの親友から、かつて関係のあった女性を訪ね歩くよう諭され、不本意ながらも差出人探しの旅に出る、というストーリー。

コーヒーとタバコをテーマにした前作『コーヒー&シガレッツ』はモノクロ映像も素晴らしい最高の出来でしたが、今回もすごい。相変わらずキャスティングと音楽の使い方がうますぎ。また、サントラが欲しくなります。いつものようにフェード・アウトで真っ暗になって各場面が閉じられるのですが、そのタイミングと主人公の中年男を演じるビル・マーレーの微妙な演技、そして前半でぐいっとひきつけた後の余韻(親友役のジェフリー・ライトの功績大)、これらの要素が重なり合って、何ともいえないゆるーい波を起こしています。ドン・ファン的中年男が経験する、人生半ばの揺れ。うまい。

私たちは人種や年齢や住んでいる場所によらず、人生を歩いていく上で絶対に変えられないものがあります。それは過去です。記憶はある程度都合よく変更したり、忘れたりすることが出来ます。しかし、過去に起こした行動やその結果は変わりません。私たちは過去でも未来でもなく、現在を生きているように思っていますが、実は、日々自分の過去を作り続けているだけなのかもしれません。そして、未来はともすればいかようにも変えられるし、好きなように作り上げることが出来るかのような錯覚に陥りますが、未来とは自分が作り上げてきた過去の”ほんのちょっとした”延長に過ぎないのでしょう。それはあたかも遥か彼方から何日もかけて足元に届くさざ波のように。

・ブロークン・フラワーズ(http://www.brokenflowers.jp/


『ものごとの意味』(No.222/2006.05.19)

特定の思想や宗教を信奉しているわけではありませんが、私は『すべての事に意味がある』と考えるタイプです。人との出会い、思いがけない出来事、予想通りの展開、突然の不幸。大きなこと、小さなこと、すべてに何らかの意味が内包されていると思います。とは言え、思惑通りに行かないことや自分の失敗等を必要以上に前向きに意味づけしたり、すべての出来事を難しく考えたりするのは好きではありません。すべての事に意味があると考えることは、自分自身の存在にも意味があると考えることで、まあ、その方がいろんなことが楽しいし、生きやすいんじゃないか、という程度のものです。

デヴィッド・リンチ監督はとあるインタビューで『映画とはさまざまな要素の集大成で、すべてに意味がある』と答えています。確かにリンチ・フィルムは意味ありげなショットに満ちていますね。中には本当に意味があるのかどうか疑問に思うキャラクターや行動もありますが。いずれにしても、自分が遭遇するすべてのことに関心を持てば、あの時のあれはこういうことだったのか、とか、これとこれがこういう風につながっているんだな、等々、なるほどと思うことも多く、人生というのはなかなかよく出来ているもんです。

で、突然ですが”ピロリ菌”。胃酸にも溶けずに胃の中に生息し、まだまだ分からないことが多いながらも、胃炎や胃潰瘍等の病気の原因ではないかと言われている細菌です。日本人の2人に1人は感染しているという調査結果もあるようです。私は慢性胃炎と診断されたことがあるため、自分の胃にこのピロリ菌がいるのではないかと疑っているのですが、このピロリ菌にも何か”意味”があるのかも?とネットで調べてみました。...残念ながら、ピロリ菌感染者には花粉症が少ないと言われているらしい、という噂は見つけたものの、現段階では基本的に人間には有害という結論が下されているようです。うーん、やっぱりそうか。

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『旅カメラ』(No.221/2006.05.12)

2006年3月11日、友人たち3人とカメラを使ったプロジェクトを始めました。『旅カメラ - floating camera -』です。
使用するのは、どこにでも売っている使い捨てカメラ『写ルンです(39枚撮り)』。このカメラを受け取った人は、自分が最も幸せだと思う瞬間を1枚だけ撮影します。そして、写した日付や場所を用紙に記入して、自分の”友達”に渡します。受け取った人は同じように撮影し、また友達に渡します。そうやっていろんな人の手を渡り歩き、しあわせの瞬間を集めて回るカメラ・プロジェクトです。最後まで撮り終わると、着払いで私のギャラリーに送っていただきます。でもって現像して展示します。
”幸せ”の基準については全く個人の判断に委ねられますし、次に渡すのは、あくまでもちゃんと話をして趣旨を理解してくれた”友達”です。それでも、結果的に40人近い人々の間を渡り歩くわけで、無事戻ってくるかどうかわかりませんし、戻ってきたとしても写っているかどうかもわかりません。また、1人あたり1ヶ月程度要すると考えると、戻ってくるまで3年ほどかかる計算になります。いろんな意味でスローなプロジェクトです。

なぜ今、ここで紹介したかというと、先日2人目である私が撮り終わったからです。
禅僧で作家の玄侑宗久氏は”幸せ”とは”海の幸”や”山の幸”等、そもそも物質であるとおっしゃっています。だから次から次へと欲しくなって際限がない。つまり”幸せになる”という目標を持っていること自体が”不幸”だと。なるほど、です。”幸せ”については、そういう気持ちや感覚として、もう少し拡大解釈してもいいと思いますが、いずれにしても、”幸せだ”と決めるのは自分だと思います。今回、実行してそのことをあらためて思いました。まあ、あまり難しいことを考える必要はないのですが...。なんだかんだシャッターを押すまで1ヶ月近く掛かりましたが、それでもその期間中はいろいろ面白かったです。他の人の写真も楽しみ。

ひょっとしたらいつの日か、このメルマガをご覧いただいている方の手元に届くかもしれません。その時、フィルムに収められるのはどんな場面でしょうか。


『直感力』(No.220/2006.05.05)

19世紀フランスの印象派画家、ルノワールの描いた女性の肌を分析すると、青と赤を巧みに組み合わせ透明感を高める現代のメークに近い色遣いをしていることが、ポーラ化粧品本舗(東京都品川区)の研究で分かったそうです(5月2日付の毎日新聞より)。
同社はルノワールの「水のなかの裸婦」(1888年作、ポーラ美術館収蔵)等の作品を「分光反射器」と呼ばれる装置で分析。肌から反射される光を青、緑、赤などに分解し反射率を比べたとのこと。理屈はよくわかりませんが、少なくとも当時はそういう科学的な機械が存在したわけではないので、ルノワールのような画家は感覚的に理解したのでしょうね。本当に人間の直感力と言うものはすごいものです。

将棋棋士の羽生善治名人もご自身の著書である『決断力』(角川書店)の中で、「人間の持っている優れた資質の一つは直感力」であり、「直感の7割は正しい」と。つまり「(これが一番いいだろう)と閃いた手のほぼ7割は、正しい選択をしている」そうです。

直感力を試す、というか確かめる、というか面白がる方法があります。
これは私の趣味の一つでもあるのですが、”CDのジャケット買い”です。ぶらりとCDショップに行き、ジャケットを眺めて「これは良い」と思うものを衝動買い。ジャケットが好みのものは、音的にも好きだろうというわけ。で、実際に音を聞いて「よっしゃー」とガッツポーズをしたり、「うそーっ」と落胆したり。でも、そういう買い方で素晴らしい音楽に出会うと、内容をわかっていて買う時よりも嬉しいですね。ただ、私の場合は7割とは行かず5割ぐらいの確率でしょうか。なので調子に乗っていると、とんでもない散財になってしまうので、そう頻繁にはできませんが...。

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『幸せの環(わ)・後』(No.219/2006.04.28)

”循環”が大事という話。続きです。

「買い物は投票である」という言葉があるように、私たち個人が”どこで買うか”ということは、社会を形作る大きな要因になると思います。大手スーパーやコンビニ(=大手資本ですね)ばかりで買うのではなく、地元の商店街で買い物することによって、街が活性化します。同様に、売れているとか流行っているとかいう理由で買うのではなく、自分が好きだから、気に入ったから、納得したから、という個人の価値判断に基づいて買うことによって、中小企業や個人をも含んだ(=多様ということです)循環が生まれるのではないでしょうか。
企業の製品が売れなければ、デフレ要因となりかねませんが、給料が下がってもその人個人が作るものが多少でも売れれば収入は補われます。もちろんモノを作れない人もいるし、作っても売れない人もいると思いますので、100%ハッピーになるわけではありませんが、やりたいことでお金を(少しでも)稼ぐ人、やりたいことを続けられる人の割合が増えることは、社会を豊かにする上で大切な要素だと思います。そもそも、大企業がメディアを通じて発信する情報に惑わされなければ、無意味な支出も減るでしょう。
大事なのは、個人が自分の頭で考え、循環の意識を持つこと。

『ニューヨークの古本屋』(常盤新平・著/白水社)という本にこんなエピソードが出てきます。
ブロードウェイにあるとあるラジオ局の人気番組のパーソナリティ、バーナード・メルツァーが自身の過去を語る場面。彼が貧乏学生の頃、教科書を買う金が無く、近所に住むサムという、およそ金持ちでもなくハンサムでもない老弁護士にお金を借りに行きます。彼はサムといろいろ話した末、必要な金額のお金を借りることに成功しますが、貧乏だった彼はその時にこう付け加えます。「サム、いつ借金を返せるか分からない」。するとサムは言います。「これは返すのが世にも難しい借金だ。私は利息はいらない。君は借金を返さなくていい。でも、助けを求める人がいたら、君はその人を助けてやれ。そして、君はそのとき自分に言い聞かせるんだ。『私は今サムに借金を返しているんだ』」。

私自身、会社勤めをしていた十数年前に同じような恩を受けた経験があります。お金ではなく仕事をいただいたので金額では計れませんが、あの時の感謝の気持ちは今でも忘れていません。
社会では他人のための行動は結果的に自分のためでもあります。「情けは人のためならず」とは、もともとそういう意味でした。利己的な意味だけではなく、循環ということを意識した上で個人が行動すれば、緩やかですが、確実に社会を変えていくことができるのではないでしょうか。


『幸せの環(わ)・前』(No.218/2006.04.21)

ここ数年、”格差”という言葉がいろんなメディアで目立つようになりました。”格差”を取り上げた書籍もたくさん出版されています。
『不平等社会日本』(佐藤俊樹・著/中央公論新社)、『しのびよるネオ階級社会』(林信吾・著/平凡社新書)、『希望格差社会』(山田昌弘・著/筑摩書房)、『下流社会』(三浦展・著/光文社)、『階層化日本と教育危機』(苅谷剛彦・著/有信堂高文社)等々...。
これらの書籍によって明らかにされているのは、要するに日本はいろんな意味で”持てる者”と”持てざる者”に二分化しつつあるということ。まあ、資本主義社会である以上仕方の無いことだと思いますし、”格差”についても以前から存在したもので、その幅が広がり、顕在化したということなのでしょう。
例えば、裕福な人たちは教育にお金を費やす比率が高く、結果的により裕福に。低所得の人たちは、ゲームや娯楽に少ない収入の多くを費やし、結果的に低い階層のまま。将来に希望を持てない若者は現実から目をそらして夢に走る、親の庇護が無くなり経済的に破綻するその日まで...。

これらの書籍を読んで共通しているのは、残念ながら効果的な打開策はないということです。うーん、難しい問題ですね。ただ、解決策になるかどうかは別として、緩和策として個人的に考えていることが二つあります。

ひとつは、個人が”やりたいことをやれる”メディアやインフラの整備。これに関してはインターネットの発達等もあり、すでにそれなりの媒体・場所があります。もっとやりようはあると思いますが、まあとりあえずはよい。で、もうひとつは、”やりたいことで稼げる(月1〜5万円程度)”メディアやインフラの整備。年収300万円を基準に考える人もいますが、これからは年収100万円台の人が増えるでしょう。その時にその中でいかに楽しく暮らすか、ということを考えながら生きても、実際に自分の努力が報われる(=社会化、貨幣化)現実が伴わなければ生きづらさは消えないだろうと。
もちろん、そういうインフラが整備されても、みんなが儲けられるわけではありませんが、少なくとも技術・能力的な中間層(大ヒットはしないけれど、確実に対価を得られるレベルの物を提供している人)が評価されることにはなると思います。つまり、必要なのは”個人の努力が相応に報われる仕組み”を作るということ。
昨今、個人的に雑貨製作やアート表現を行う人が増えています。その中には実際にお小遣いを稼ぐ人たちも現れています。一攫千金ではなく、現実的なお小遣い稼ぎ。金額自体は少なくても構いません。これがもっと実現しやすくなれば、格差は無くならなくても、幸せな人は増えるのではないでしょうか。階層に関しては、階層を行き来できる仕組みが残っていればよいのではないかと思います。
では、そういう仕組みを作るには何が必要か。それはハードウェアではなく、”循環”という概念だと思います。
ちょっと次回に続きます。

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民主党代表選挙』(No.217/2006.04.14)

民主党は7日午後、都内で両院議員総会を開き、新代表に小沢一郎氏を選出しました。マスコミ等では最初から小沢氏有利が伝えられており、その通りの結果となったようですが、菅直人氏との代表戦の結果が119対72の大差だったというのは少し意外だったかもです。やはり今までに無い、新しい体制が求められたのかもしれません。

小沢氏に対しては、個人的にいい印象を持っています。細川非自民連立政権の立役者として果たした実績も大きいと思いますし、自身が率いる自由党が民主党と合併する際にも、突きつけられた条件をそのまま飲むような形になり、名より実を取ることの出来る人だなあと思いました。民主党のホームページ(http://www.dpj.or.jp/)から、小沢一郎代表の就任記者会見を見ることが出来ますが、まあメディア向けの部分はもちろんたぶんにあるにしても、民主党と合流した理由として「民主党こそが自民党に代わって政権を担い、政治を官僚の手から国民の手に取り戻して、国民に夢と希望を与えることができると確信した」からだと語っています。そういう意味では長い道のりでした。ってまだ途中ですが。

いろんなメディアで小沢氏の剛腕ぶりを心配する論調も見受けられますが、小泉首相と比べるとまあどっちもどっちじゃないでしょうか。もし政権を取ったとしても結局外交ではアメリカ追随しか出来ないのでは、という懸念もありますが、それも現在の政府と比べれば...と。民主党自体は岡田氏〜前原氏という若返りが完全に裏目になり、昨今のメール問題でも大失態を晒していましたし、相変わらず”烏合の衆”と揶揄されるまとまりの無さも不安ですが、個人的に民主党に肩入れする理由は無いにしても、やはり今の国政の状況を何とかして欲しいと思います。小泉首相はもうすぐ退陣ですが、後任として最有力の阿部さんは、体裁を気にするタカ派という感じであまり好きじゃないんですよね。申し訳ないんですが。そういう人って意外と折れやすかったりするので。政権交代でも政界再編でもいいから、とにかくこのあたりで小沢氏に暴れていただきたいと思います。

ちなみに、就任会見の最後、小沢氏自身が変わらねばならないという決意表明に際し、映画『山猫』のクライマックスにおけるバート・ランカスター演ずる老貴族の台詞を引用していました。「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない。横文字で言いますと、”We must change to remain the same.”」。そのせいもあってか(?)、このところ近所のツタヤの『山猫』がすべて貸し出し中です。


『CD紹介 - プリンス他 -』(No.216/2006.04.07)

久しぶりに、最近買ったCDのご紹介(よく考えたらおかしな日本語ですね)。
まず、プリンスの最新作『3121』。ユニバーサル・ミュージック移籍第1弾であり、前作『ミュージコロジー』から約2年ぶりです。前作も基本に立ち返ったようなソリッドな音がとても気持ちよくてかなりのヘビーローテーションでした。ちょうどアメリカでもプリンスが再評価されているなんて噂も聞いて(しかし、再評価とは失礼な)、気分よく聞いていたもんです。でもって、新作はこれまた待ってましたのエレクトリック・ファンク満載。いやー、ホント同時代に生きていて良かった。先行発売されたシングル曲『テ・アモ・コラソン』を聞いたときは、その甘さにちょっと不安もありましたが、杞憂でした。この作品はいろんな人に受け入れられると思います。プリンスは100歳までアルバム出し続けて欲しいです。

次はマッシヴ・アタックの2枚組みベスト『コレクティッド』。彼らの15年にわたる活動を凝縮した作品。何と新曲も収録されています。彼らが築き上げてきたダークで憂鬱で、とてつもなく美しい音楽が存分に味わえます。リミックス作品も多いので、彼らの全アルバムを持っている人も(自分のことです...)”買い”ですね。
こういう不透明で沈み込むような世界観って、90年代前半からずっと世界を引っ張り続けているような気がします。やっぱり彼らのセンスが時代を先取りしていたということなんでしょうか。それにしても当時のイギリスには、マッシヴ・アタックやトリッキー(元メンバー)なんかを産み落とす環境や背景があったんですねえ。

最後はヒップホップ・グループ、ジャングル・ブラザーズの『I GOT U』。試聴したときは特に可もなく不可もなく、という印象だったのですが、ジャケットのアートワークがかっこよかったのと、日本盤には、かのゴダイゴの名曲『モンキー・マジック』(テレビドラマ『西遊記』のオープニングに使われていた曲ですね。もちろん孫悟空が堺正章の方。)をサンプリングした曲が入っていたのでつい買ってしまいました。この曲最高です。シンセがめちゃくちゃかっこいい。これが収められているゴダイゴのアルバム『MAGIC MONKEY(西遊記)』はやっぱり日本の歴史に残る名盤ですね。それにしても、こういうのってどういう経緯でジャングル・ブラザーズにサンプリングされるに至るんでしょうか。『西遊記』見てたわけでもないだろうしなあ。

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『ブラック・ホワイト』(No.215/2006.03.31)

3月8日発売のニューズウィーク日本版(3月15日号)に興味深い記事が載っていました。アメリカのケーブルテレビ局FXネットワークの番組『ブラック・ホワイト』の紹介です。この番組は、黒人の家族と白人の家族がそれぞれハリウッドのメーキャップアーティストの手を借りて、黒人の家族が白人に、白人の家族が黒人に変身するというもの。人種交換ですね。でもって、それぞれの家族が今までと違う人種で普通に日常生活を体験する。ちょうど同じ時期に日本のテレビでも同番組が紹介されていたのを見たのですが、非常に面白かったです。

特に白人に扮した黒人のお父さんのエピソードが秀逸。白人になって靴を買いに行ったお父さん。サイズが合うかどうか靴を試し履き。店員が自分の前にかがんで、靴紐を結んでくれたことに驚愕。お店から出てくるなり「おい、聞いてくれ。靴屋の店員が俺の靴紐を結んでくれたよ!こんなの生まれて初めてだ」。さらにお父さんはバーテンも経験します。お客がお酒を注文。お父さんが作って出すと、お客は何気なく挨拶代わりに一言。「このあたりは黒人が少ないから子供の教育にはいい環境だよ」。
受難はこのお父さんだけではありません。黒人になった白人のお父さんが白人だけのクラブに行くと、クレジットカードを見せて支払いができることを見せなくてはならない。「白人のときはそんなことないのに」。
もちろん父親だけでなく、それぞれの家族はいろんなシチュエーションで今までにない境遇に出会います。まあ、それぞれの家族が送り込まれるところは”いかにも”なところで、やらせっぽい感じもなくはないですが、それでもリアリティがあります。こういうのをエンターテイメントに仕上げるのがアメリカのすごいところ。

ただ、差別している側の白人が黒人になって驚く様には少し疑問も。知らなかったわけでもないでしょうに、みたいな。これなら同じアメリカのTV番組『サタデーナイトライブ』で、コメディアンで俳優のエディ・マーフィーが白人のメイクをして街を歩くコーナー『白人になろう』の方が面白かったかも。エディ・マーフィーは人種問題を考えるきっかけを与えたり、話し合うための問題提起を行ったりするつもりは毛頭なく(私にはそう見えました)、徹底的に黒人の視点から白人社会を馬鹿にしていました。こっちの方が潔い。
でも『ブラック・ホワイト』、日本でも放送してくれたら見るのになあ。


『脳の中』(No.214/2006.03.24)

このところ、いろんなメディアでとりあげられている”脳”。「脳を鍛える」「脳のトレーニング」「脳力」等々、いたるところで”脳”に関するキャッチコピーを目にします。テレビ番組でもこういった脳の体操のようなコンテンツを取り入れた番組が増えているようです。もちろん書籍もたくさん出版されています。もともとは東北大学の川島教授による一連の”ドリル”あたりが始まりだったような...。今、任天堂のコンパクトゲーム機が大ヒットし、品薄状態が続いていますが、二つのディスプレイという斬新な発想はもちろん、同教授監修の脳を鍛えるソフトの存在も、このヒットに寄与しているんでしょうね。脳ブーム、すごいです。

そんな中、最近、脳科学者・茂木健一郎先生の本が面白いと教えていただく機会がありました。早速何冊か読んでみたのですが、これがどれもハマります。最初に読んだのは新書『脳の中の人生』(中公新書クラレ)。もともと『読売ウィークリー』という雑誌の連載コラムをまとめたものなので、内容的にも噛み砕かれていて読みやすいです。ホント、脳って面白い、というか不思議。
例えば脳は「不確実性を好む」そうです。サルを使った実験で、確実にジュースをもらえる場合と、2回に1回しかジュースをもらえない場合のドーパミン細胞(脳から分泌されるホルモンの一種で、行動を決定付けたり、快感を得たりする際に放出される)の活動を調べると、ジュースがもらえるという報酬に対してはもちろん、もらえるかどうかわからない、という不確実な状況に対しても放出されたとのこと。また脳は「マイルドな多重人格者」。例えば東京で暮らしている時と生まれ育った田舎に帰った時とで話し方や気分が変わるのも、極端に言えば”人格が変わって”いるそうです。そもそも”記憶”というもの自体、脳が勝手に覚えたいものとそうでないものを選り分けるし、長年にわたって編集され続けているらしいです。

読み進めていると、まったく脳って奴は...という気持ちになってきます。私たちは日々生活する中でいろんな悩みやトラブルに遭遇するわけで、そんな時は「なかなか人生は思ったようにいかないなあ」、などと感じるわけですが、すべては脳の快感原則や思考回路によって左右されているのだとしたら、意外と私たち人間は”わがまま”に生きているのかも、という気持ちになってきます。”私たちが”というより”脳が”と言う方が近いのかもしれませんが。
そんな脳をトレーニングして喜ばせることにより、物覚えが良くなったり、ひらめくことが増えたりするだけでなく、人生も豊かに過ごせるのだとしたら、脳ブーム、ちょっと乗っかってみるのもあり、かもしれません。


『アート・ブレイキー』(No.213/2006.03.17)

前回、このコラムで湾岸戦争を経験したアメリカ海兵隊員の回顧録『ジャーヘッド』をご紹介しました。あれから一週間、未だに原作本は私のかばんの中に入っています。ところどころ何度も読み返し、本を閉じてはいろいろと思い、考える。そんなことの繰り返しです。そんな中、日本ではずるい与党と弱い野党が戦い、お笑い芸人が一攫千金を夢見て戦い、格闘家たちが最強の称号を求めて戦っています。

突然ですが、天才ジャズ・ドラマー、アートブレイキーの話。
アート・ブレイキーは、1940年代後半から、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演。1955年から90年に亡くなるまで、ホレス・シルヴァー(ピアノ)、リー・モーガン(トランペット)、ウェイン・ショーター(サックス)など幾多の名プレイヤーを輩出したモンスター・グループ、ジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして活躍したミュージシャンです。私もジャズ・メッセンジャーズ出身のミュージシャンは大好きです。特にウェイン・ショーター。ジャケも良い。
で、先日、ご近所に住む方からアート・ブレイキーにまつわる話を聞きました。その方は、アートブレイキーが1961年に初来日した際のステージを見たそうです。この来日をきっかけに日本にはファンキー・ジャズブームが訪れます。そのぐらい素晴らしいライブだったとのこと。しかし、アート・ブレイキーはそんな歴史に残る演奏を披露した後、自分が叩いていたドラムセットから離れようとせず、その場でうずくまってずっと泣いていたそうです。周りの人が驚いて「どうしたのか」とたずねると、彼は「今まで生きてきて、こんなに歓迎されたのは初めてだ」と。
ふやけた私たちの頭を稲妻のように打ち抜く言葉。誤解を恐れずに言えば、アート・ブレイキーにしろ、マイルス・デイヴィスにしろ、黒人の人たちが音楽をやる理由はおそらく食べるため、でしょう。ここで言う食べるためとは、もちろん生きるためと同じ意味。だからこそ彼らの音楽は本物だし、人の心を揺さぶるのだと思います。そしてきっと彼らは今でもその姿勢を崩していない。

大昔から、私たちはずっと戦うことを繰り返してきました。そして現代、私たちは一体何と戦っているのでしょうか。何のために戦っているのでしょうか。戦うことが前提であり、肯定される世界である必要はないけれど、何も考えずに真っ直ぐ進んでいればいいだけの人生でなくなってしまったことも確か。もっと考えることが、行動することがあるはずです。とりあえず、今日はジャズを聴きます 。


『ジャーヘッド』(No.212/2006.03.10)

NYタイムズが”最も優れた湾岸戦争映画の記録であるばかりか、戦争文学の最高峰である”と絶賛した若き海兵隊員の回顧録『ジャーヘッド・アメリカ海兵隊員の告白』(アンソニー・スオフォード/著、中谷和男/訳、アスペクト)を映画化した作品『ジャーヘッド』を見ました。監督は『アメリカン・ビューティ』でアカデミー賞を総なめにしたサム・メンデス。

『ジャーヘッド』の舞台は1991年に始まった湾岸戦争の終戦間近のイラク。祖父から三代続いて海兵隊員となった青年アンソニー・スオフォードの戦場での経験を描いた物語。戦場とは言え、直接敵と遭遇することはほとんどなく、射撃訓練の成果も披露する機会もない。血気盛んな兵士たちがひたすら移動し、待ち続ける日々を描いています。そういう意味でも”戦争映画”としてはかなり異色の部類です。

作品を見ると、まず軍隊の訓練や戦場での生活における細かな描写が目を引きます。訓練の内容、他の隊員との人間関係、マスコミへの対応から糞尿の処理の方法まで、いろいろと興味深いエピソードにあふれています。そんな中で主人公があらためて「僕の戦争が始まった」と感じるのは、初めて大規模な敵の攻撃を受けた時。砲弾が飛び交う中で、彼は呆然と立ち尽くすことしか出来ません。その場面で画面がスローになり、彼の顔に触れる風や砂の一粒一粒が克明にスクリーンに映し出される瞬間は映像的にも美しい。テレビやインターネット等のメディアがどれだけ戦場の実態を伝えようとしても、実際に経験するものとは違うんだ、とでも言いたげです。
相手と殺し合いをする機会がないからと言って、兵士たちの精神的なバランスが保たれているかというとそうではありません。やはり戦場にはさまざまな狂気が渦巻いています。最も怖いと感じたのは、主人公の上官を演じるジェイミー・フォックス(いい味出してます!)が、自分が海兵隊にいる理由を嬉々として語る場面。その言葉の真意はともかく、それが人間の持ちうる本質だとすると、この言葉に恐ろしいほどの狂気が含まれている気がします。そして、このエピソードは、何より戦場でニーチェやカミュに読み耽る青年が、自ら志願して軍隊に入る精神的なプロセスこそ最も恐ろしいものなのではないか、という問いかけにつながってきます。他人を殺す経験をしなくても、兵士として戦争に直接参加することは確実に人間の心に傷跡を残す。戦争とはそういうものであるということ。実際に戦場にいたことのない人間にとって、今まで見たことのない、感じたことのない戦争がここにあります。

映画としても傑作だと思いますが、原作がこれまたすごいです。アメリカに生きる若者の孤独と戦慄と絶望と忠誠が凝縮されています。まだお読みになっていない方はぜひ。どちらが先でも大丈夫です。いずれにしても本作は今のところ今年度のベスト、です。

・『ジャーヘッド』公式サイト(http://www.jarhead.jp/


『本、CD&漫画』(No.211/2006.03.03)

今私はCDショップや本屋さんに行くと、必ず何か買って帰りたくなります。特に昨今は新書の充実により、本屋さんに行くのがやばくなりました。新書の棚をじろーっと眺めていると、いくつか読んでみたいタイトルに出会います。でもって、1冊あたりに関しては、さほど買うのに勇気がいる値段でもありません。特にその後、電車に乗って移動するとか、ちょっと喫茶店で時間を潰す暇があるなんて場合は80%の確立で買ってしまいます。つい先日も「脳の中の人生」(茂木 健一郎 著/中公新書ラクレ)、「ヤクザに学ぶ組織論」(山本重樹 著/ちくま新書)を買いました(このタイトル、読みたくなりますよねえ?)。

最近ではこのCDと本にさらに漫画が追加されました。漫画は集めだすと本当にキリがないため、近年はあまり買わないようにしていたのですが、これも新しいメディア(というか売り場ですね)のおかげでちょくちょく買ってしまう羽目に。コンビニでの販売です。昔懐かしい名作や普段あまり読めないような作品が、ドカッとまとめて分厚い1冊に集約されて発売されているんですよ。これが読む方には何とも便利なんですよね。普通の単行本のようにカバーにお金をかけていないこともあってか、お値段も安い。

先日も仕事帰りに衝動的に1冊買ってしまいました。『ナニワ金融道』でお馴染みの青木雄二氏の短編集です。「完全版」と銘打たれたその本には『ナニワ金融道』の原点となった作品や、青木氏が若かりし頃に書いた初期作品等がまとめられているんです。個人的にはかなり好きな作家さんで、長編はもちろん、短編に味があるんですよね。『晴れたらポップなボクの生活』というタイトルで映画化される『淀川河川敷』や、最後に主人公がボードレールを引用しながらホットコーラを作る場面で終わる『ラテン喫茶の頃』等の名作が掲載されています。また、作品の合間には自身による作品解説や「貧乏脱出法」等の青木氏ならではのコラムも挿入されています。これで税込み500円はお得。この500円〜1000円あたりの価格帯って、私のような”下流社会”に生きる人間にとって一番手を出しやすい価格なのかも。気をつけなきゃ。ちなみにこの短編集、”第1弾”だそうで、いつまで続くか分からないところが不安...。でも、全部そろえるんだろうなあ。


『メルマガ配信に関するお知らせ』(No.210/2006.02.24)

今回はメルマガに関するお知らせです。
「フライデー・ビデオマガジン」は『まぐまぐ』『メルマ!』『RanSta』という3つのサービス経由にて配信を行ってきましたが、この度『メルマ!』と『RanSta』が事業統合を行うことになりました(『メルマ!』に統合されることによって『RanSta』が無くなるそうです)。ご購読いただいている方において作業を行っていただくことは一切ありませんが、念のためお知らせいたします。『RanSta』でご登録いただいていた方には、今後『メルマ!』より配信されます。なお、『RanSta』経由『メルマ!』の方を含め、『メルマ!』より配信されるメルマガには広告が入ってしまいます(広告を載せないメルマガは有料サービスとなりました)。何卒ご了承いただきますようお願いします。

おかげさまで2001年にWEBを立ち上げ、同年11月からメルマガを発行して以降、4年が過ぎました。メルマガも現在たくさんの方々にご購読いただいています。コツコツと何かを続けることが最も苦手な私が、これだけ続けて来られたのもWEBやメルマガをご覧くださっている皆さんのおかげです。内容や体裁に関しましては、あまり変化がないように思われるかもしれませんが、文章量や突っ込み加減等、よりよいバランスがあるのでは?と常に考え、悩みながらやっています。今後ともがんばりますので、ご意見・ご感想・アドバイス等ありましたら遠慮なくご連絡ください。ではでは、よろしくお願いします。

2006.02.24追記
<お詫び>
『メルマ!』と『RanSta』の統合に関するメンテナンスの日程上、2月24日配信の「フライデー・ビデオマガジン」に関し、『RanSta』にてご登録いただいた方への配信ができませんでした(『まぐまぐ』及び『メルマ!』ご購読の方には配信済)。メンテナンスの日程上の問題(『RanSta』ご登録の方には23日、24日は一切配信できない等々)もありますが、こちらの確認ミスもあります。大変申し訳ありませんでした。『RanSta』にてご登録いただいた方にも次号以降は『メルマ!』より配信されます。今後ともよろしくお願いいたします。

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『フライトプラン』(No.209/2006.02.17)

女優歴40年を越える大スター、ジョディ・フォスター主演『フライトプラン』を観ました(彼女の映画初出演は1972年の『NAPOLEON AND SAMANTHA』=邦題『ジョディ・フォスターのライオン物語』ですが、3歳の時からCM等に出演していたそうです)。同作はいずれ三軒茶屋の映画館にも来るんだろうなあと思いつつ、なかなか話題になっていたこと(全米興行収入2週連続No.1)や、個人的にジョディのファンということもあり、とりあえず観ておこうと。
感想を述べますが、ちょっとネタばれの部分があるかもしれませんのでご了承下さい。

舞台は800人の乗客をゆったりと収容できる2階建ての巨大旅客機。ジョディ・フォスター演じる航空機設計士カイルとその娘は、突然の事故で亡くなった夫の遺体と共に帰国の途に。しかし、高度1万メートルの上空で、彼女がふと目を離した隙に、娘は忽然と姿を消してしまう...。必死の捜索にも関わらず娘は発見されず、乗務員の調査で娘の搭乗記録が無いことが判明。果たして娘は本当に乗っていなかったのか、それとも?...というのがストーリー。密室に近い設定、子供を守る母親というあたりで、どうしてもジョディ主演の前作『パニック・ルーム』と比較してしまうのですが、決定的に違うのは、前作は主人公の親子を守っていたのは完璧なセキュリティをうたう”部屋”でしたが、今回は何も、誰も彼女を守ってくれるものはありません。その分母親の強さが際立っています。

予告編が見せすぎのため、大体予想通りに進んでしまうところがちょっと残念なんですが、それでも中盤までは面白かったです。ジョディのパニックぶり、無関心な周囲の描写、アラブ人に疑惑を向ける時代性、機長役のショーン・ビーンの好演等々。後半以降はよくあるサスペンスドラマという感じで、さらに犯人の緻密なようで破綻している計画や、ほったらかしの伏線等、雑な作りが目に付いてしまいました。個人的には良くも悪くもジョディの強さが目立った作品でした。彼女は自分が出演作を選ぶ際の基準としてあるインタビューでこう答えています。「出演作については、まず私自身を感動させてくれるもの、自分自身興味がもてるものを選ぶようにしてる」。やはり自身が母親となったことも、最近の出演作の選択に関係しているのかもしれませんが、なんとなく、近年は想像できる範囲に留まっているところがファンとしては安心と物足りなさが。とりあえず、まだ日本公開は決まっていませんが、スパイク・リー監督の最新作『インサイド・マン』(ジョディは黒幕である弁護士役)でのデンゼル・ワシントンとの競演に期待します。

ちなみに本作はアメリカで公開時、全米の客室乗務員協会などの労働組合が会員に対して、同作品の鑑賞ボイコットを呼びかけたそうです。客室乗務員らを悪者として描写しているというのがその理由だったらしいですが、確かに誰が敵か味方わからない、というような設定を意識していることもあってか、乗務員の態度やサービスは最高とは言えないかも(笑)。まあ映画と言ってしまえばそれまでなんですが。


『シネコン』(No.208/2006.02.10)

ショッピングセンターや飲食店等、さまざまな業種の店舗と映画館が一緒になった複合施設であるシネマコンプレックス、いわゆる”シネコン”。日本では13年前に生まれ、2005年には全都道府県に建設されたそうです。で、昨今そのシネコン事業から外資系が撤退しつつあるとのこと。スクリーンの多さや快適なシート等で映画の楽しさがアップ、他の事業との相乗効果も見込める等、メリットが多いと思われいたシネコンですが、スクリーンが増えた割りに集客は増えない等、マイナスの面もあるようです。そういうデメリットを計算し、利益に敏感な外資系がいち早く儲からないと判断し、引き上げているのでしょうか。

私はシネコンの経営戦略・収益性等について、さほど詳しいわけではありませんが、基本的に”箱”の規模が大きくなれば、それに比例してさまざまなコストも上がるので、たくさんのお客さんを集め続けなければならないという問題は発生するはずです。ということは、とにかく集客力のある作品=ヒット作を上映し続けなければならない。もちろん、シネコン自体が映画を作ることができるわけではありませんから、どれがヒットするか?という観点から買い付けを行うしかない。しかし結局ヒット作というのは最大公約数的な側面がありますから、そればかりでは飽きられてしまうでしょう。何かそのあたりに大きなジレンマが存在している気がします。立派なハードウェアを揃えても、そこでどういうソフトウェアを流すかでシネコンの色や存在価値が左右されてしまう。さらに、映画館は一つではないわけで、ヒット作が生まれてもそれをどこで見るか?ということもある。結局は”箱”の問題ではなくて、映画を見るという文化をどう創るかということなんでしょうね。おそらく、その施設の中でどれだけ長くお客様に滞在していただくか、お客様一人当たりの売上単価を上げられるか、というようなことを日夜考えているのではないかと思いますが、施設内で完結する企画やイベントばかりではあっという間に煮詰まってしまうと思います。広くてゆとりある場所があるが故に、自分のフィールド内での活動にばかり目が行っていてはシネコンが閑散とする日もそう遠くないかもしれません。

日本では漫画やフィギュアの例にあるように、マニアなものにも人が集まる土壌があると思います。個人的にはシネコンという施設自体にはあまり興味をそそられませんが、それでも快適に映画を見ることができるのはありがたいと思います。ぜひ、分かりやすいヒット作のみに走らず、どんどんマニアックな攻めのラインアップや今までにない上映企画の実施、映画を楽しむための情報発信等を、実施していただきたいものです。


『信頼の快感』(No.207/2006.02.03)

前々回もそうですが、これからのビジネス・商売において、”信頼”が重要なキーワードになると何度かこのコラムで申し上げてきました。ビジネスにおいてはそもそも信頼が前提にあるわけですから、”キーワードになる”というよりも、”より大切になる”と、言い換えた方がいいかもしれません。

で、ちょっと思ったこと。最近、大学生でも在学中から会社を作る人が増えているようです。私自身がギャラリーをやっているという状況もあってか、そういう人たちと接する機会も増えていますので、実際そうなのでしょう。彼らは本当にいろんなことを勉強しています。ただ単に本を読んで知識を得るだけでなく、同じように起業を目指す人との交流会や講演会等を通して多くのことを吸収しているようです。自己実現をしたいとか、就職自体が難しいとか、将来の選択肢が増えすぎて収拾がつかないとか、とにかく”お金をたくさん得る”ということに最大の価値を置いているとか、いろんな理由があろうかと思いますが、彼らのような人が増えることは、基本的には良い傾向だと思います。しかしながら気になることが一つ。
そういう人たちはとても”ビジネスライク”です。それ自体は結構なことです。何かをこちらに提案する際にも必ずメリットを提案してくれたり、さまざまな交渉においても費用対効果、収支等をしっかり計算します。ビジネスを行ううえではそういう考え方も大切ですが、しかし、そういう考え方が伝わってくればくるほど心配になります。彼らが”信頼で物事が運ぶ快感”を味わったことがないのではないかと。もしくは、味わったことがあるとしても本当の素晴らしさを知らないのではないかと。
”信頼で物事を運ぶ”ことはやり過ぎれば単なる”なあなあ”です。さらに癒着や談合を生む温床になるでしょう。新規参入を妨げる要因にもなると思います。そこのバランスは常に考える必要があります。しかし、使い方を間違いなければ”信頼”は驚くほどの「スピード」や「安心」や「確実性」をもたらしてくれます。”信頼”がベースとなった社会では、ハードウェアやテクノロジーの進化の歩みもゆっくりに感じるかもしれません。”信頼”を担保にすることが出来れば、金融機関は今までにない景色を見せてくれるでしょう。もちろん、結局はどこかで”信頼”が破綻するから、今の世の中は、”信頼”が最重要視されていないわけです。また、すべてが”信頼”で解決できるとは言いません。しかし、だからといって、大学生だけでなく、いろんな人が”信頼”を基盤にすることが出来ない世の中だとすると、それはやはり大変な問題だと思います。なぜなら、そのためには、まず他人を信じることから始めなければならないからです。疑うのは簡単ですが、信じるのは難しい。きっと今は、それでも信じる価値がある、ということを”信じられる”かどうかが問われているのかもしれません。


『ボブ・ディラン』(No.206/2006.01.27)

マーティン・スコセッシ監督による孤高のミュージシャン、ボブ・ディランの自伝的ドキュメンタリー『ボブ・ディラン:No Direction Home』を観ました。もともとテレビ用に作られた作品でアメリカやイギリスでは2日にわたって放映されたもの。映画は2部構成で3時間を越える長編でした。そんなこととは露知らず、たまたま渋谷の劇場近くで仕事が終わった夜に、半ばお腹をすかせた状態でそのまま観客席に滑り込んだ私としては、2時間後「第一部終了」と字幕が出たときは一瞬へこたれそうになってしまいましたが、それでもボブ・ディラン本人の生々しいインタビューの圧倒的な量に席を立つことは出来ませんでした。スコセッシはまだまだ音楽に対してはモチベーションがあるんですねえ、って怒られるか。

ボブ・ディランに関しては、私が高校生の頃にリリースされた「リアル・ライブ」というLP盤を買ったのが最初で、その頃は結構聞きましたが、それ以降は折に触れ聞いている程度です。それでも彼のカリスマ性や常に社会に向けられた視線にはずっと興味を持っていました。
映画の中で最も衝撃を受けたのは、多くのライブシーンで前半アコースティック、後半エレキとギターを使い分けていたこと。エレキギターを持った際に”フォークの裏切り者”と烙印を押された彼ですが、そんなことはものともせずわが道を進んでいたのかと思いきや、実は常に悩み迷っていたのか?と。観客も前半では”惜しみなく”、後半では”容赦なく”という感じで良くも悪くもその熱のすごさを感じました。
最近の新書、ドキュメンタリー作家の森達也さんと作家の森巣博さんの対談集『ご臨終メディア』(集英社新書)で、森さんがおっしゃっていた日本とアメリカの”民度の違い”を多少なりとも肌で感じた気がしました。森さんのおっしゃっていることとはずれているのですが。
後、ボブ・ディランも、音楽という大きな歴史の流れの中では圧倒的にオリジナルでありながら、同時に”意思を継ぐ者”という存在であるのだなあとも感じました。そういう意味では、ボブ・ディランの後に続くのは誰でしょうか。ブルース・スプリングスティーンも二ール・ヤングもトム・ペティもおじさんになってしまいました。意外とトレイシー・チャップマンとかだったりして。とにかく内容が濃いのでもう一度観たいです。家に帰れなくなるほど体力を使うと思うけれど。


『職業の貴賤』(No.205/2006.01.20)

最近のメディアを賑わしている耐震強度偽装事件で、今月の17日にマンション販売会社「ヒューザー」の小島進社長の証人喚問が行われました。30回近くにわたる証言拒否や安倍晋三官房長官の秘書との接点の発覚等々、いろいろと波紋を呼んだ内容でした。この問題はそもそもの制度上の不備から始まり、責任の所在が分からない当事者たちの関係性、公的資金投入の是非等々、さまざまな要素が含まれていますし、いろんな見方ができる問題であると思いますが、個人的にあらためて強く感じたのは、”職業に貴賤はないけれど、同じ職業の中に貴賤はある”ということでした。
どこかのテレビ局で、建築士の方々はこの問題の話をする際、事件発覚の発端となった姉歯元建築士に対して、知り合いでなくても”さん”付けで呼ぶ、と放送していました。要するに偽装というのは、絶対に越えてはいけない一線には間違いないけれど、建築主からのコストダウンの圧力は相当なものだ、という同情の意味もあるのかもしれません。繰り返しになりますが、もちろん、越えてはいけなかった。
「貴賤」を辞書で調べると「貴いことと、卑しいこと」とあります。「職業に貴賎なし」とはよく言われますが、もともと自然の秩序にしたがって生きると言う日本人の倫理観から、人にはそれぞれに定められた相応しい仕事がある、という職業倫理が生まれたそうです。コツコツと何かを作り続ける仕事も、お金を右から左へ動かして利ざやを抜く仕事も、疑問はありますが基本的には同じ価値があると思います。仕事によってどちらが上でどちらが下ということはないでしょう。しかし、同じ仕事に携わる人間の中で貴賤はあると思います。姉歯元建築士にとってみれば、仕事の請負先が分散されていなかったこと等も、コストダウンの要求に抗えなかった理由にあるかもしれませんが、いずれにしても自分の仕事にどれだけ誇りを持って取り組んでいるか、というところが問われたのだと思います。
小嶋社長の証人喚問と同じ日に強制捜査が入ったライブドアにしてもやはり越えてはならない一線を超えてしまったのかもしれません。堀江社長の著書の中に、「みんな好きなことを仕事にしようとするから失敗する。まず儲かる商売を選ぶことが大事」という発言があります。だから仕入れコストも流通費用も掛からないネットがいいのだと。好きなだけで商売が成功しない点については賛成です。しかし、好きでもない商売に対して、どれだけ誇りを持てるか、貴くいられるかというとかなり疑問が残ります。以前もこのコラムで書いたと思いますが、やはりこれからの商売、ビジネスは”信頼”ということが最も重要なキーワードになると、これも再認識しました。まあ、当たり前のことなんですが。


『鼻』(No.204/2006.01.13)

ある朝、突然頭の中にとあるメロディーが浮かび、その日は一日中、なんとなくそのメロディが頭の中をグルグル回っている。そんな経験ありませんか。そのメロディも最近耳にしたばかりとか、特に気に入っているとか、そういうことはほとんど関係なく、ある時は昔聞いた音楽だったり、ある時はCMソングだったり。一度、朝から頭の中をドラえもんの主題歌がリピートしていたことがありました。別に日常生活に支障が出るような度合いのものではありませんので、どうということもないのですが、何とも不思議なんですよね。そういう経験みなさんはありませんか、いや、ありますよね。
私はついこの間もこの現象にとらわれてしまいました。でも頭に浮かんだのは、音楽のメロディではなくて小説の一部分。それは芥川龍之介の小説「鼻」の最後の一文でした。「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら」。主人公・禅智内供(ぜんちないぐ)が紆余曲折を経て、長ーい鼻を取り戻して心休まった場面の描写です。この作品は確か私が高校生の時に現代国語の教科書に載っていたと思うのですが、とにかく最初と最後の文章は強烈に覚えているんですよね。しかし、何で今更浮かぶかなー。さっぱりわかりません。メロディーではないので頭の中でリピートするわけではないのですが、どうにも気になってしょうがないのです。で、結局、本屋に走って文庫本を購入して読みました。それにしても、これだけの短い文章で人間の自尊心の不安定さを描ききったのはさすがですね。それこそ、今更いうまでもないですが。
芥川龍之介と言えば、もう一つ強烈な衝撃を受けた記憶があるのは後期の作品の「河童」。「Quax, Bag, quo quel, quan?」。人間の狂気というものを初めて文章で目の当たりにした気がしました。まあ、そんなわけで、結果的に久しぶりに芥川作品を読み直すことになったのですが、それはそれで面白かったです。しかし、この”ふと浮かぶ”というのはホント不思議な現象ですね。
ちょっと嫌なのは、誰が歌ったとか、書いたとかわからないものが浮かんだ時。一日中のどに何か引っかかった気持ちなんですよね。あっ、そう言えば、”ふと”思い出しましたが、”映画『シェーン』のラストシーンで、子供が「シェーン、カムバック」と叫んだ時、実はシェーンは死んでいた”、という台詞が出てくるのは何の映画だったか...。うーん。


『ジョージ・マイケル』(No.203/2006.01.06)

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。2006年最初の配信です。お正月はいつも近くの映画館で2本立て(普段も安いですが、1月1日は特別に2本で1,000円)を見ているのですが、今年は断念してしまいました。映画館は2館あり、いずれも元日は安いのですが、かたや『交渉人・真下正義』&『容疑者・室井慎次』、かたや『Shall We Dance?(ハリウッドリメイク版)』&『ダンシング・ハバナ』のということで、これらの作品が良い悪いではなく、単に個人的趣味としていずれも2本続けて見るのはつらいなあと(ファンの方すみません...)。ということで、今年は3日に渋谷まで足を伸ばし、世界を代表するポップスター、ジョージ・マイケルの素顔に迫るドキュメンタリー映画『ジョージ・マイケル〜素顔の告白〜(A Different Story)」を見ました。80年代UK音楽にどっぷりつかった身としては懐かしいことこの上ない内容。彼の最初のキャリアであり、世界を制覇した人気デュオ”WHAM!(ワム!)”の相方、アンドリューの老け方には度肝を抜かれましたが、それでもずっと見ているとそれなりにかっこいいのはさすが。
映画の感想としては彼がくぐりぬけてきたさまざまな栄光やトラブルの内幕が彼自身の口から語られていて興味深かったです。彼の音楽的ルーツや素質には余り言及されませんが、最初のデモ・テープに名曲「ケアレス・ウィスパー」がすでに入っていたなんて聞くと、まあ才能があったんだろうなあという感じ。ミュージック・ビデオやライブ・シーンもうまく盛り込まれていてファンや洋楽好きの方には結構楽しめる内容だと思います。
個人的にグッときたのは、親しい友人との関係性が見えたこと。幾度の挫折を乗り越えて新しいアルバムを出した際に、仲間の女性が「彼は今、本当に幸せなんだと思う」という意味の発言をしたときは、彼らが信頼し理解しあってきた歴史がリアルに伝わってきました。これもきっと彼が純粋で誠実だからではないかと思います。私は、いわゆる成功を収める人と言うのは、”今の自分”を愛することができる人だと思っています。それは日々いろんな努力や勉強を積み重ねている証拠であり、だからこそ成功を成し得ることができるのだろうと。彼が自身のキャリアの中で、今こそ自信にあふれ、楽しんでいる様子は、見ていてホッとさせられました。

さて、また新しい一年が始まります。私にとっても、ご覧いただいている皆さんにとっても、今までで一番素敵だったと言えるような一年でありますように。

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