管理人によるコラムです。
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『あの感動をもういちど』(No.405/2009.11.20)

渋谷にある東急Bunkamuraで興味深い企画が進行中です。”Bunkamura”開館20周年を記念して、映画館ル・シネマにて、人気作をリバイバルで特別上映するという企画なんですが、面白いのは、上映作品が投票によって決定されるところ。最初に特別サイトで行った投票結果を元に、候補作品をセレクト。さらに投票を行うことによって、最終的な上映作品を決定するとのこと。

で、候補に残った作品を見てみると...『髪結いの亭主』があるではありませんかっ。これは投票せねばっ。うむー、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『愛に関する短いフィルム』や『二人のベロニカ』もいいし、”貴重”という意味では、ニルス・タヴェルニエ監督の『エトワール』も入って欲しい。でもやっぱり、ルコントですね。ルコント作品が日本で始めて公開されたのが『髪結いの亭主』で、おそらく最初に上映したのがル・シネマではなかったかと(違うかな?)。個人的には何度も映画館で観た作品ですが、ル・シネマでは観たことがありませんので。候補23作品のうち6〜9作品が上映作品として選ばれるとのこと。1/3〜1/4の確率ですね。微妙..。

同企画のサイトにて、各候補作品の”作品詳細”の部分をクリックするとル・シネマのサイトのアーカイブにリンクされているのですが、ついでに過去作品をいろいろ眺めていたら結構楽しかったです。ルコント作品は結構上映しているんですね。ジョン・カサヴェテス監督の『オープニング・ナイト』(1990)、『インド夜想曲』(1991)、『ロゼッタ』(2000)、『ベルリン、僕らの革命』(2005)など、個人的な好みとリンクしているものも多いです。異色なところでは『ジョージ・マイケル 〜素顔の告白〜』(2005)。これはル・シネマで観ましたが、当時「なぜここで?」と思った記憶があります(笑)。

ちなみに投票受付期間は11月23日まで、選ばれた作品の上映期間は12月19日(土)〜12月25日(金)です。詳細は以下のサイトからどうぞ。

・東急Bunkamuraル・シネマ(http://www.bunkamura.co.jp/cinema/

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『写真新世紀』(No.404/2009.11.13)

キャノン株式会社が主催する『写真新世紀』という写真の公募展があります。1991年秋より、同社のメセナ活動として行われているもので、写真に何が出来るか、写真にしか出来ないこと、をテーマに、写真表現の新たな可能性に挑戦する新人写真家の発掘・育成・支援を目的とした公募コンテストで、特に若手写真家の間では登竜門として広く認知されています。

で、この度、2009年度のコンテストにて、私の友人(の義弟さん)が入賞しました。おめでとうございます。すごい。作家名が”Adam Hosmer”で作品名が『1/2』。現在、東京都写真美術館で11月7日(土)から29日(日)までの会期で『写真新世紀東京展2009』として展示中です。先日観に行ったのですが、非常に面白かったです。
作家自身はアメリカ人で、奥さんが日本人なわけですが、両方の家族のポートレートがシンメトリーに配置されていて、その間に二人のお子さん(?)らしきポートレートがあります。
興味深いのは、それぞれの写真にデジタル処理で、表面をぐりぐりと引っかいたような効果が加えられているところ。遠目から見ると、ちょっとにじんだ普通の写真に見えるんですが、近づくにつれポートレートとしては少しずつ崩壊していきます。最終的には、写された人の国籍や年齢などはほとんど消滅し、その人の存在そのものが残るかのようです。
個人的に”多様性”をテーマに活動していることもあって、非常に心に響きました。グランプリが獲れるよう祈ってます。

それにしても、久しぶりに友人とそのご家族に、写真作品として出会うというのは貴重で楽しい経験でした。みんな元気そうで良かった(笑)。

・写真新世紀(http://web.canon.jp/scsa/newcosmos/

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『負けない技術』(No.403/2009.11.06)

麻雀の”代打ち”として20年間無敗を誇る伝説の雀士・桜井章一氏。”代打ち”とは企業や組織が、多額の金銭や権利などを賭けて争う勝負に、文字通り”代わり”に麻雀を打つプロのこと。いわば”裏”の世界ですね。そこで無敗伝説を作ったわけですからハンパじゃありません。ここ数年、桜井氏をモデルにした小説や映画などがたくさん登場し、にわかに注目が集まりだしました。
2006年に出版された『クリエイティブ・アクション』(フィルムアート社)というアート誌にも、建築界の巨匠ル・コルビジェやアート界の鬼才マシュー・バーニーらと並んでページが設けられるなど、その活躍はフィールドを選びません。この時の氏の言葉「動作が揺れると心が揺れてしまう」は衝撃的でした。
で、最新著作となるのが講談社+アルファ新書の『負けない技術』。新書の中には結構タイトル負けするものもあるのですが、これはさすがに面白かったです。
真剣勝負の中から同氏が得た教訓はまさに人生訓そのもの。その中でも個人的に心に響いたのは、「”答え”を求めない強さを持つということが大事である」ということ。マニュアルに慣れた現代人は「答え」という定まったものがないと不安でしかたがない。ゆえに確証や保証を他に求めると。しかし、そんなものはどこにも存在せず、そういうものを求めないタフな人間が「負けない」人間だと。本当にそう思いますね。自分が何者かになるために努力すべき期間、修行すべき期間、すなわちまだ何者でもない、また、何者かになれる保証もない、そういう不安だらけの日々に絶えられない人が多くなった気がします。その不安をいかに断ち切るか。またその不安をいかに楽しむか。それがその人ならではの”強さ”になるのだと思います。
なかなかテンションのあがる一冊でした。読後の感想として、かなり間違っていると思うんですが、久しぶりに麻雀したくなったなあ。

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『羊頭狗肉?』(No.402/2009.10.30)

28日、民主党の鳩山首相と自民党の谷垣総裁とが、衆院本会議の代表質問で初対決。なかなか熱い論戦、というか”やりとり”が繰り広げられました。
まあ、中身はさほど面白いものではありませんでしたが、とりあえず、自民党が野党として発言している様子はどこか違和感があって興味深かったです。

谷垣氏の論点は、基本的にマニフェストを守れなければどうするのか?ということですが、これに対して鳩山首相は「当然、政治家としての責任は取る」と明言。まあ、当たり前のことですが。ただ、私もそうですが、国民は実はそれほどマニフェスト実行にこだわっていないのではないのでしょうか。
特に都民は1995年の都知事選挙のことがありますから。当時、タレントの青島幸男氏が、開発中の臨海副都心地区で開催予定の『世界都市博覧会』を中止するとの公約を掲げ、無所属で立候補し当選しました。その後、さまざまな逆風にあおられるも「約束を守れる男かどうか信義の問題」と、都市博中止を強行。関連の建設業界や販売業界では、自殺者も出るなど、社会問題となりました。

もちろん、正しい政策・マニフェストは何としても実行して欲しいですが、より詳細に内容を検討した結果、当初より柔軟な対応になるのはありえる話。おそらくほとんどの国民がそう考えているのではないでしょうか。大事なのは、何が何でもマニフェストを守ることではなく、民主党のマニフェストに大きく掲げられた”暮らしのための政治”をちゃんと実行してほしいということ。これまた当たり前のことです。

結局、代表質問の場では、谷垣氏がどう突っ込もうと、「そんな駄目な状況にしたのはどこの誰か」と切り返されると自民党としては立場が無く(何か子供のけんかを見ているようでしたが)、全体的には鳩山さんに分があった感じでしょうか。いずれにしても、特に外交問題などは、政権交代が解決の糸口になりうるケースもあると思いますのでがんばって欲しいですねえ。

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『立ち止まる』(No.401/2009.10.23)

NHKの番組『仕事の流儀』が好きでよく見ます。さまざまな現場の第一線で活躍する人たちをターゲットに、仕事をする上での流儀を引き出し、プロフェッショナルとは何か?を問う番組。

先日の放送で取り上げられていたのは、北海道で一世代前の”古臭い”酪農のスタイルを貫いている三友盛行氏。牛に自然の草を食べさせる放牧にこだわり、飼っている牛の数も地域の平均の半分以下。それがゆえに、生乳の生産量は3割しかないけれど、徹底した低コストによって驚くべき利益率をあげているとのこと。自然に逆らわず規模拡大をめざさないスタイルが、餌や設備投資の経費を圧倒的に少なくしているそうです。

そんな三友氏の回のタイトルが「立ち止まり、足るを知る」。まさに意志をもって留まる人、”STAYER”ですね。
三友氏にスポットが当たり始めた理由に、牛の餌の原料となる輸入穀物などの価格の高騰があるそうです。つまり、とにかく牛の数を増やして生産量をアップすることが酪農家の”成功”であったものの、餌の高騰でコストが跳ね上がり、みんな立ち行かなくなったところで、三友氏の存在が浮き上がってきたと。
情報が氾濫する世界では、この”立ち止まる”ということにも勇気がいるし、ノウハウも必要です。まず、規模の拡大ではなく利益重視の価値転換が求められますし、単純なコスト削減は必ず限界がやってきます。三友氏や、農薬を使わず、アイガモに食べさせることによって田んぼの雑草や害虫を除去するアイガモ農法を実践されている古野隆雄氏もそうで、自然や周りの環境と調和する中で、コスト削減を実践しなければ意味が無く、継続しません。
三友氏が日々繰り返されているのもまさにこれでした。立ち止まること、足るを知ること、心に響く言葉です。

...毎回、さまざまなことに気づかされることの多いこの番組、すごく好きがゆえの心配なのですが、とにかく”やらせ”がありませんように...。

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『ジム・オルーク』(No.400/2009.10.16)

まさかのCDを2枚買いました。いずれも”こんなアルバムが出るとは思わなかったっ”という意味での”まさか”。もちろん良い意味で。

1枚は、正真正銘ジャンル分け不能のミュージシャン、ジム・オルークのソロアルバム『ザ・ヴィジター』。ジム・オルークは親日家でも有名で、くるり、坂田明、カヒミ・カリィなどと一緒に仕事をしています。2001年にソロアルバムを出して以降、日本人に限らず、とにかくいろんな人と共演したり、プロデュースしたりという仕事がメインでしたが、ここに来て突然の純粋なソロアルバムを発表。まさかこんなプレゼントがあるとは。
内容は、全一曲のインスト・アルバム...。彼らしいですねえ。本人曰く、現代版『チューブラー・ベルズ』(マイク・オールドフィールドの名盤っ)だそうですが、まさにまさに。
アコースティック・ギターの静かな幕開けから、さまざまな楽器を駆使しながら、コラージュのように音で空間を紡いでいく様子は圧巻。叙情性を抱えつつ、決して熱くなりすぎないところが時代のちょうど1歩先を進んでいる感じ。
ミラーボールが椅子の上で砕けているジャケットも静かな狂気を感じさせます。きっと、本当に狂気を内包している人だと思います。養老孟司さんは、「本当に狂った人だけが普通の人を演じられる」とおっしゃいました。静寂と狂気が交錯する傑作です。

もう一枚は、バッド・ルーテナントのファースト・アルバム『ネヴァー・クライ・アナザー・ティアー』。バッド・ルーテナントは2年前に活動を休止したニュー・オーダーのリーダー、バーナード・サムナーによる新プロジェクト。ほとんど情報をチェックしていなかっただけに、店頭で見たときは衝撃を受けました。あまりの衝撃に、購入してからCDプレーヤーにかけるまでの記憶がありません...というのは嘘ですが。
内容は、まんまニュー・オーダー。ニュー・ウェイブ+パンク路線。アルバムや曲のタイトルには、いまだにイアン・カーティスの死を抱えているのか、と思わせるものもありますが、全体的には、新たな決意、前向きな躍動感にあふれています。やりたいことをやっている感じが清清しいです。
バーナード・サムナーって、歌っていも、ギターを弾いていも、インタビューに答えていても、どこか頼りないところがあるんですが、希代のメロディ・メイカーであることを再認識しました。やっぱり生き残っている人は、何だかんだ才能があるんですね。永続的なプロジェクトにはなりえない気がしますが、もう一枚ぐらいはアルバムを出して欲しいです。多分、彼の場合、何をやってもそんなに変わらないのでしょうが。

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『映画のプロセス』(No.399/2009.10.09)

先日、とある映画制作団体の方から、うちのギャラリー(世田谷233)を撮影に使わせて欲しいと依頼がありました。こういうお話は基本的にお断りしないことにしておりまして、今週の水曜日、お店の定休日を利用して実際に撮影が行われました。久しぶりに映画の撮影現場が見られて楽しかった。
ちょっと失礼な言い方ですが、思ったより本格的に活動されていらっしゃる方のようで、3カット程のシーンの撮影でしたが、監督や俳優さんも含め、15名程度のスタッフさんが集結。あらためて映画作りって多くの人が関わるんだなあと感心。しかも、当日は結構強い雨が降っていて、それに伴っていろいろと撮影場面も変更されたようでみなさん大変そうでした。
残念ながら、あまり時間がなく、監督さんに詳しいお話を伺うことが出来なかったのですが、どうやらアメリカで映画制作を学ばれた方のようで、機会があればインタビューしてみたいと思いました。それにしても、映画作りはお金と時間がかかるものです。脚本、演出、美術、編集などなど、さまざまな専門職の方がいて、それぞれの役割を果たしている。そしてそれを束ね、作品に仕上げる監督。映画が”総合芸術”と呼ばれるのも納得です。

インターネットやコンピュータ・テクノロジーの台頭によってテレビや映画の存在価値があらためて問われていますが、こういうある意味、物的・経済的な資本を大量に投入して作り上げられる芸術、という軸足が残り続ける以上、テレビや映画も存在価値を保ち続けるかもしれません。そこを惜しんで、製作プロセスを安易な方向に舵を切ると、そこから衰退が始まるような気がします。
逆に言うと、例えば最新型の携帯電話やipodの動画機能を使って映像を撮り、それを編集した作品があったとして、いかにそれが撮影や編集過程において、既存の映画制作のプロセスを踏襲していたとしても、おそらく流通やアウトプットの方法は違ってくるはずですから。それらは全く違うメディアとして扱うべきなのかもしれません。
あらゆる表現の分野で、個人で作ることが基本となっても、古くからの映画ファンとしては、人やモノをある程度ちゃんと投入して作る”映画”は”映画”として存在し続けて欲しいと願います。

ちなみに、今回撮影にご協力させていただいた映画作品、来年の夏に公開予定だそうで、また具体的になりましたらこちらでもご紹介させていただこうと思います。ひょっとしたら、ですが、私もちょこっと映っているかもしれません(笑)。

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『戦闘モード』(No.398/2009.10.02)

血液型による性格判断はいつの時代も人気がありますが、その信憑性についてはいろいろな意見があるようです。個人的には確率論として結構信じています(笑)。というか、当たることも多いなあという感じですが。

以前、何かの本で読んだのですが、私のようなO型の男はアクションや戦争映画を好む傾向にあるそうです。ちょっと血の気が多いんでしょうか。実際、私も、難解な映画やオチも何にも無い映画が好きな反面、確かに何かの折に突然アクションものや戦争ものを観たくなる時があります。
こういう”戦闘モード”(?)に入ったときにオススメなのは監督でいうとサム・ペキンパー(『ゲッタウェイ』(1972)、『戦争のはらわた』(1977)など)、黒澤明(『隠し砦の三悪人』(1958)、『椿三十郎』(1961)など)、クウェンティン・タランティーノ(『レザボア・ドッグス』(1992)、『パルプ・フィクション』(1994))あたりでしょうか。

先日も、なぜか”戦闘モード”に入ってしまい、しかも邦画モードだったので、岡本喜八監督の『座頭市と用心棒』(1970)を観ました。この”座頭市”シリーズはとにかくスカッとするところが気に入っています。座頭市を演じる勝新太郎の殺陣もすごい。本作は初見なんですが、黒澤明監督が三船敏郎と組んだ傑作『用心棒』(1961)に登場する”用心棒”がそのまま登場(もちろん演じるのは三船敏郎)し、”座頭市”と絡むというまさに頂上対決。ずっと気になっていたんですよね。東宝出身の岡本監督が座頭市シリーズに関わったのは本作のみ。そういう意味でも興味深い作品。
...で、予想にたがわず面白かった。いっつぁん、庶民の味方だねえ。この手の邦画で面白いのは、洋画のような派手さはないものの、ボスキャラ同士の一騎打ちの緊張感が尋常じゃないこと。タランティーノもこれに惹かれたんですよね。座頭市も、雑魚キャラ相手とボスキャラ相手ではオーラが全然違う。しびれます。
最後はもちろん、勝新太郎と三船敏郎の対決。ただ、見る前から、最終的にこの2大キャラが戦うなら、どちらかが死ぬということは無いだろうなと思っていたのですが...まあ、予想通りでした。キャラクター的にどっちが強い云々ではなく、黒澤明監督にけんかを売る人はいないでしょうから。

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『ベルギー幻想美術』(No.397/2009.09.25)

渋谷・東急Bunkamuraザ・ミュージアムにて、『ベルギー幻想美術館』展を観ました。
今回の展示は、姫路市立美術館が所蔵する、日本最大級の質と規模のベルギー美術コレクションの中から、19世紀後半から20世紀にかけて活躍した象徴主義やシュルレアリスムなどの優れた画家たちの作品約150点から構成されています。油彩・水彩・素描・版画などさまざまな技法による作品が展示されているのも特徴ではないでしょうか。会場内には妖しくも美しい女性がモチーフとなった作品が数多く並び、まさに幻想美術館と呼ぶにふさわしい空間となっています。
いつもながらBunkamuraさんの展示は個性的で雰囲気がありますね。個人的には前回の『だまし絵展』に引き続き、マグリットの作品がたっぷり見られたのが嬉しかったです。

よくビジネスの世界では、”不安な時代にはファンタジーが流行る”と言われます(最近では『ハリー・ポッター』が流行ったときがそうでした)。先行きの見えない不透明な時代には、人々は現実逃避を求めると言うことなのでしょうか。ベルギーで幻想美術を生み出した画家たちを突き動かした衝動の裏には、当時、本国の何十倍もある植民地からの巨大な富によって加速し、人々の生活に押し寄せてきた産業革命への不安もあると言われています。

工業化のみならず、いつの時代にもさまざまなイデオロギーの台頭や技術革新などは起こっているわけで、そういう意味では私たちはそういう意味では私たちは利便性や快適さを手に入れると同時に、常に不安と隣り合わせに生きていると言っても過言ではないのかもしれません。今、現在も、インターネットという新しいメディアは進化し、コミュニケーションは変化を続けています。日本では、コミュニケーション以前に政府も刷新されました。

どちらかというと、不安な心とまっすぐ対峙せず、心の隙間に面白おかしいものを流し込もうとする風潮がある中で、やはりこのような美術に触れるということには、大きな意味があるのではないかと思います。

・『ベルギー幻想美術館』展
http://www.bunkamura.co.jp/museum/

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『落語を聴く』(No.396/2009.09.18)

落語が好きなんですが、なかなか寄席には行けないので、結局CDやDVDを買ったり借りたりして聞く(もしくは観る)ことが多いです。落語にハマりだしたのがおよそ14〜5年前。そのころからツタヤには落語のビデオが結構あったので、どちらかというとCDで音声だけを聞くよりも、映像で見ることが多かったです。さほど深い考えもなく、演者のしぐさや表情を楽しめるのは映像だろうと考えていたのですが、いつの頃からかそれが変わってきました。

理由はいくつかあるんですが、例えば、映像メディアの場合、カメラが切り替わることがよくあるんですね。最初は大体正面から、演者さんの全身が映るような構図なんですが、時と場合によって表情がアップになったり、ちょっと斜めからの映像になったり。これがいけないんです。どうも”映像ですよ”といわれている感じで。もちろん、表情が重要な噺の場面なんかで、よりわかりやすくするためのアップなんだと思うのですが、それが残念ながら余計なお世話、になってしまうんですよね。
落語って、やっぱりライブの芸。その日その時の空間で楽しむのが一番。例えば、席が悪くて表情がよく見えなければ、それはそれでしょうがない。想像すればいいんです。そういう、ある種の演者さんとの間合いが崩されてしまう。で、逆にCDの場合は映像がない分、最初から想像して楽しんでしまうんですね。これが面白いんです。

例えば、いろんな落語の音源を配信している『落語の蔵』というWebサイトがあって、古今東西いろんな落語家さんのネタが登録されているのですが、中でも、戦前はレコード、戦後はラジオで活躍された三代目三遊亭金馬師匠(現在活躍されている金馬師匠は四代目)の音源はホント面白い。映像がない方がいいんじゃないかとさえ思います(さすがにそれはないか)。もちろん、演者さんやネタによって映像の必要性は変わってくると思いますが、映像がなくても楽しめるのは落語という演芸ならではですね。

ちなみに『落語の蔵』では、それぞれの音源を試聴できますし、気に入れば購入も出来ます。それこそ昭和の名人・古今亭志ん生〜柳家小さんから立川志の輔〜柳家喬太郎なんかの新作まで揃っていて、一席500円前後と決して高くは無いと思うんですが、調子に乗って買っているとあっという間に数千円になってしまうのでご用心。

・落語の蔵:http://www.rakugonokura.com/

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『One Day,One Film』(No.395/2009.09.11)

この秋、3つの写真展に参加します。
ひとつは古き良きカメラ、二眼レフによる『弐眼展』、そして、うちのギャラリーでサポートさせていただいている『233写真部』が主催する写真展、『ポスカ展』と『One Day,One Film』の2つ。
このうち、『弐眼展』と『ポスカ展』はいずれもテーマが自由のグループ展ですし、まあ、楽しく撮って楽しく参加できそうな感じです。...で残りの『One Day,One Film』。これもグループ展示なのですが、参加者10名が、それぞれの”特別な1日”に撮影したフィルムを”ビュープリント”という1本のロールプリントにて出力。写真のコミュニケーション・ツールとしての側面がさらに強まる現代において、とある1日と1本から醸し出される個人のドキュメンタリーを集めようというもの。コンセプト作りに関わらせていただいたのですが、途中からどう考えても「自分で自分の首をしめてるよなあ」、と。で、結果的に予想通り。全然撮れません。”特別な一日”が決まらない。それも9・10月の2ヶ月で、って話ですからねえ。しかも富士フイルムさんが協賛についてくださったので、下手なことできないし...。

個人の社会化が進み、人生のほとんどを自分でコントロールできるようになった昨今、さらにあらゆる地域で都市化が進んだ現代では、もう”お祭り”ってほとんどないに等しいですね。もちろん、それなりにちゃんと残ってはいますが、本来の社会的な役割よりも、形式的な要素が多くなっている気がします。なので、本当に個人にとって”特別な日”というのは、各自それぞれが自分で決めざるを得ない。そういうことなんでしょうねえ。アメリカ人なんかがやたら記念日を大事にするのもわかる気がします。

まあ、なんとかこの日かな?というのを見つけましたが、逆にそういう視点で日々の暮らしを見つめなおすことができる、というこのもこの企画の魅力でしょうか。
視点を変えることで、何気ない日が特別な日に変わる。”終わりなき日常”を生き抜くために視点を変えること、そしてそれを記録すること。ひょっとしたらカメラは現代人が必要に駆られて生み出した魔法の杖なのかもしれません。その魔法の杖を振った後に出現するのは、個人のドキュメンタリーが発する希望への物語でしょうか、それとも...。

・233写真部:http://233photographers.net/

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『変革の時』(No.394/2009.09.04)

2009年8月30日、第45回衆院選の投開票が行われ、結果、民主党が前回の177議席を大幅に上回る308議席を獲得、自民党は大物議員が軒並み落選するなど議席を大幅に減らし、これによって民主党に政権の座を明け渡すことになりました。事実上、いよいよ鳩山由紀夫首相の誕生です。これによって今後の日本がどうなるのかはまだまだ見えませんが、8月30日が歴史的な日となったことは間違いありません。政治が大きく動きました。

”先が見えない”とは言え、そもそも世の中を閉塞感を打開すべく、政権交代を望んだということで、特別民主党に期待しているわけではない、というのがおおよその世論と言ったところでしょうか。個人的にもまあそんなところです。民主党になったからといって本当に官僚主導から脱却できるのかどうか疑問ですし、マニュフェストもすべて実現されるとは思っていません。
さまざまなメディアの論調も、麻生政権や自民党の実績部分に日を当てる、”揺り戻し”も散見されます。4年前の選挙と真逆に振れる国民の風見鶏的な姿勢に苦言を呈するメディアもあります。確かに、「一度やらせてみよう」的な政権交代はリスクも大きく、ある意味無責任と言えるでしょう。取り返しのつかない状況に陥る可能性もゼロではありません。しかし、もしも55年体制以降、今までの自民党による政治が間違っていたとしたら...。

大きな変化、とは、一見、瞬間的に発生するように思えますが、実は、それ以前の小さな変化の積み重ねであると思います。社会党を取り込んだり、郵政選挙で自己変革を演出したり、なんとか政権の座をしのいで来た自民党ですが、すでに砂上の楼閣だったのかもしれません。
いずれにしても、これから私たち国民に出来ることは、ちゃんと関心を持ち続け、しっかりと監視することしかありません。頼んまっせ。

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『落語の言葉』(No.393/2009.08.27)

最近、寄席にはほとんど行けていませんが、それでも自分のギャラリーで開催している落語寄席は来月で53回目。1回あたり2席ですから、ここ数年で一応100席以上の落語を聞いていることになります。まあ落語のCDやDVDなんかはよく聞きますが、やっぱり”ライブ”が命ですからねえ。

落語を聞いていて楽しいのは、さまざまな言葉の”言い回し”。もちろん、他にも楽しいところを挙げればきりが無いのですが、当時の文化が生んだ粋な言い回しや、現代では使われなくなった風情のある言葉が多いところがいいんですよね。
例えば”心持ち”。「俺ぁ、こんなに酒をくらっていい心持ちだよ」などと使われます。いい”気持ち”ではなく、”心持ち”。今ではあまり”心持ち”という言葉は使われていませんが、この言葉、好きなんです。

”気”と”心”とどう違う?と言われてもなかなか難しいですが、辞書(大辞林)で調べてみると”気”は、「生命・意識・心などの状態や働き。息。呼吸。意識。物事に反応する心の働き。」などとあります。一方で”心”は「人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。また、働きそのものをひっくるめていう。精神。心情」と。

まあ、正確な解釈はひとまず置いておいて、個人的には”気”の方には、何か人間の意識を超えたものが含まれているような感じがします。大きな生命の環のようなものや霊的なものなどですね。で、”心”はあくまでもその人が持っているもの、感じるものではないかと。なので、落語の噺の中で登場人物が”心持ち”と言う時、そこには何かその人そのものが表現されているように思えるのです。さらに、これは偶然かもしれませんが、落語でこの言葉が発せられる時は、その本人が「楽しい状態」または「嬉しい状態」の時が多いです。お酒を飲んでいい心持ち、褒められていい心持ち。いずれもお酒やお世辞によって生じる心のありようなのかもしれませんが、本人がそう感じた結果、さらに言えば本人がそう”感じようとした”結果の状態で、外的なものによって強制されたものではない、そこはかとした”間”が何とも見ていて楽しくなるんですね。
少なくとも、酒井法子容疑者が感じていたのは、”いい心持ち”ではなく、単純に薬による”いい気持ち”だったのではないかと...。

・233落語ナイト:http://233rakugo.nobody.jp/

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『フリーベース』(No.392/2009.08.21)

やっぱりニューウェイブが好きです。そして「JOY DIVISION」「NEW ORDER」が大好きです。で、その「NEW ORDER」の過去のアルバムがコレクターズ・エディションとして再発されているようです。そもそも昨年発売される予定だったものが、”音源が悪い”ことを理由に延期されていたもの。第1弾として初期の4枚のアルバムが発売されています。それぞれアルバム未収録のシングルやリミックスなどレア音源を収めた2枚組み。まあ、レア音源集やベスト盤も全部持っているので、かぶっている音源も多いのですが...欲しい...。しかもなぜか中にはオリジナルと違うジャケットのものも。うむー。商売がうまいなあ。

それにしても等身大のガンダムといい、「NEW ORDER」といい、こういった80年代の文化の再構築は、世代の人間にとっては嬉しいですが、あまりに過去の遺産の焼き直し(は、ちょっと言いすぎでしょうか)ばかり見せられるのも複雑な気持ちです...と思っていたら、なんと「NEW ORDER」の元ベースのピーター・フックとアンディ・ルーク(元スミス)、マニ(元ストーン・ローゼス、現プライマル・スクリーム)による新プロジェクト「フリーベース」もいよいよアルバムを発表するとのこと。ある意味奇跡っ。こっちは即買いですね。

すでにMySpaceでは2曲公開されていました。まんま「NEW ORDER」という感じの曲もありますが、まあこれはこれでかっこいい。しかも、ヴォーカリストがヘイヴンのゲイリー・ブリックス。さらに、ゲストとしてイアン・ブラウン、オアシスのリアム・ギャラガー、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガン、シャーラタンズのティム・バージェスなどが予定されているとのこと。こりゃ”焼き直し”どころじゃなくなった。楽しみ。

・Freebass:http://www.myspace.com/freebassuk

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『分福茶釜』(No.391/2009.08.14)

3年程前、細野晴臣さんが連載されていたエッセイをまとめた『アンビエント・ドライヴァー』(マーブルブックス)が発売されたのを機に、細野さん関連の書籍をまとめて読んだ時期がありました。その後も、細野さん関連の本は出るたびに購入して読んでいるのですが...いいんですよねえ。
先日、昨年買いそびれていた『分福茶釜』(平凡社)を購入。この本は、細野さんの盟友・鈴木惣一朗さんを聴き手に迎えての対話を収めたもの。時にするどく、時にはぐらかしながら、これも細野さんの人生観、死生観、音楽論などがじんわり沁みてくる内容でした。
非常に読みやすいのですが、軽さの中にも深みのある言葉が並んでいます。
例えば「人と店と道路」。「都会には人と人しかいない。個人対個人っていう関係性しかない。それが不自然に思えてしょうがない」と。で、他に何があるかっていうと、”お店”と”道路”。「本来人と人の間には”空気”があって、自然があって、いろんな要素がそこにある。人間はそれを全部一緒に呼吸して生きている」と。
確かに、中途半端に都会化する田舎と比べて、人の密度、人間関係の密度が濃くなってくると、どこか息苦しさに繋がるのかもしれません。それをある意味緩和してくれているのが自然の空気や温度や湿度なのではないでしょうか。人と人の間に、社会的な関係性だけではなく、五感で感じられるものが存在することでバランスが取れる。もちろん、細野さんは田舎も同じになってきている、と警鐘を鳴らすことは忘れません。
失礼ながら、思わず棒を持って絶妙なバランスで綱渡りをする狸を思い浮かべてしまいました...。

テキスト量を考えるとお値段的には、ちょっとだけ高めかもしれませんが、まさに”福”を”分”けてくれる、ファンならずともそばに置いておきたくなる一冊だと思います。

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『ニューズウィーク映画号』(No.390/2009.08.07)

先月発売された、ニューズウィーク日本版の特別版「映画ザ・ベスト300」を買いました。ニューズウィークに掲載されたレビュー300本や、30年以上に渡って同誌の映画欄を担当するデービッド・アンセン氏が考えるベスト100、さらにクエンティン・タランティーノ、ケビン・スミス監督のインタビューなど、映画レビューに関する内容が盛りだくさんで結構楽しめます。

デービッド・アンセンがアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)の「偉大なアメリカ映画ベスト100」にもの申す特集も秀逸。”選考を行う映画人は作品作りに忙しくて映画を見る暇がない。だからランキングに意外性がない”と切り捨てます。マイナーな秀作がランキングに入らないのは、選考委員に見た人が少ないせいだと。確かに、映画業界が右肩上がりではないとは言え、アメリカだけでも1年間に公開される映画は5百本近くはあるでしょうから、そうなんでしょうね。
とは言え、96位のスパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』を取り上げて”アフリカ系の監督作品はこの1本のみ”と言いながら、自分のベスト100にもそのあたりの選考はなし。やっぱり保守なんですかねえ。
まあ、そもそも誰が選んだものであれ、ランキングにはさほど意味は無いとは思いますが...。

300本のレビューは年代別に分かれていて、スタートは1960年代で、最新は2000年代なんですが、全体を通して眺めてみると、ハリウッド映画の凋落の歴史としても見れてしまうところが切ないですね。
2000年代のページの最初には、”映画界は2000年代、新たな転機を迎えた”とあります。つまり、今は、CG技術の発達、題材の多様化、好みの細分化などの要素が入ってきたことによる、映画の”夜明け前”だと。
さて、2000年からほぼ10年経った現在、映画の夜は明けたのでしょうか、それとも...。

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『同じ釜の飯』(No.389/2009.07.31)

最近の”気づき”のひとつ。
個人の集まりによって形成される組織や団体、家族、会社、自治体、国家など、すべてを”コミュニティ”と捉えると、そのコミュニティから新たな価値を生み出すことがものすごく難しくなっているのではないか、ということ。”集まり”を形成している意味や目的が、これだけ不透明で危うい時代はなかったのではないでしょうか。

”情報”という概念が発明される前、そこまでさかのぼらなくとも、メディアというものがこれほどまでに発達する前は、簡単に言うと、長く生きること(=経験を積むこと)に価値がありました。しかもそれはコミュニティの違いをも超える普遍的なものでした。ところが、情報が氾濫し、情報を得るための手段・メディアが複雑になればなるほど、過去の経験が通用しない場面が増え、結果的に経験から来る”知”の価値が下がってしまいました。
では、一体何に価値があるのでしょうか。情報が早いこと、多いこと、確かなこと。残念ながらそれらのすべてがそうとは言いいれない世の中になりつつあります。早いことは情報の誤差を生み、多いことは本当に必要な情報にたどり着く障害になり、確かな情報は、それ自体の定義が難しくなってしまいました。

具体的には、家族であることの意味は何なのか、同じブランドの店舗が全国に広がることでどういうメリットがあるのか、顧客をネットワークすることで何が生まれるのか、学校に生徒を集めることでどんな教育が可能なのか、あらゆるコミュニティが抱える問題は、本質的には同じだと言えるでしょう。
その問題を解決するためには、まず、情報の氾濫など、さまざまな要因によって希薄になってしまった、人と人、モノとモノ、人とモノのつながりを取り戻すことが必要なのではないかと思います。新たな価値とは、単なるマッチングから生まれるものではなく、差異から生まれるものだからです。
多様性によって分散した価値を、多様性を尊重しつついかに取り戻すか。そのあたりかなあと。

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『コミュニティの価値』(No.388/2009.07.24)

最近の”気づき”のひとつ。
個人の集まりによって形成される組織や団体、家族、会社、自治体、国家など、すべてを”コミュニティ”と捉えると、そのコミュニティから新たな価値を生み出すことがものすごく難しくなっているのではないか、ということ。”集まり”を形成している意味や目的が、これだけ不透明で危うい時代はなかったのではないでしょうか。

”情報”という概念が発明される前、そこまでさかのぼらなくとも、メディアというものがこれほどまでに発達する前は、簡単に言うと、長く生きること(=経験を積むこと)に価値がありました。しかもそれはコミュニティの違いをも超える普遍的なものでした。ところが、情報が氾濫し、情報を得るための手段・メディアが複雑になればなるほど、過去の経験が通用しない場面が増え、結果的に経験から来る”知”の価値が下がってしまいました。
では、一体何に価値があるのでしょうか。情報が早いこと、多いこと、確かなこと。残念ながらそれらのすべてがそうとは言いいれない世の中になりつつあります。早いことは情報の誤差を生み、多いことは本当に必要な情報にたどり着く障害になり、確かな情報は、それ自体の定義が難しくなってしまいました。

具体的には、家族であることの意味は何なのか、同じブランドの店舗が全国に広がることでどういうメリットがあるのか、顧客をネットワークすることで何が生まれるのか、学校に生徒を集めることでどんな教育が可能なのか、あらゆるコミュニティが抱える問題は、本質的には同じだと言えるでしょう。
その問題を解決するためには、まず、情報の氾濫など、さまざまな要因によって希薄になってしまった、人と人、モノとモノ、人とモノのつながりを取り戻すことが必要なのではないかと思います。新たな価値とは、単なるマッチングから生まれるものではなく、差異から生まれるものだからです。
多様性によって分散した価値を、多様性を尊重しつついかに取り戻すか。そのあたりかなあと。

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『ニコラス・コッポラ』(No.387/2009.07.17)

かなり話題となっている世界の終末を描いた決定作『ノウイング』。昨今の、地球規模の破滅的映画流行りには辟易させられますが、監督が『クロウ/飛翔伝説』(1994)や『アイ,ロボット』(2004)のアレックス・プロヤス、とくれば、個人的にも興味がグッと沸いてきます....と、それはさておき、主演はまたもやニコラス・ケイジ。

もう”フランシス・コッポラの甥”、というレッテルなど全く必要なくなった、今やハリウッドを代表するスターとなった、ニコラス・ケイジ。いつも眉間にしわを寄せている印象のある彼ですが、相変わらず出演作はヒットし、その地位はゆるぎないものになったと言えるでしょう。
個人的には彼の代表作はデヴィッド・リンチ監督の『ワイルド・アット・ハート』(1990)だと思います。同年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した本作は、彼の代表作であると共に出世作でもあったと思います。ニコラス・ケイジが演じる主人公セイラーが羽織るど派手なヘビ革のジャケットは自前だったそうで、さらに撮影後、相手役のローラ・ダーンにプレゼントしたとかしないとか。このセックスと暴力に溺れたセイラーをある時は粋に、ある時はバタ臭く演じられるのはまさに彼しかいなかったと思います。そしてそのままラストのお馬鹿シーンを演じられるのも彼ならではかと。この頃のニコラス・ケイジはかっこよかった。

しかしながら、『リービング・ラスベガス』(1996)で、アカデミー主演男優賞を演じて以降の彼は、エンターテイメント性の強い大作志向となり、このあたりはファンの賛否も分かれるところ。友人ショーン・ペンからはそのあたりを突かれて「彼は俳優ではなくタレントだ」と言われたとか。この『ノウイング』でも大学教授というまじめな役どころ。個人的にはまたマニアックな作品に出演して欲しいなと。
本人もカルト映画の傑作『ウィッカーマン』を自費でリメイクするほどですから、そういう作品への出演を望んでいるのではないでしょうか(ちなみに本作はラジー賞=最低映画賞5部門にノミネートされてしまいました...)。
毎年たくさんの作品に出演しているパワーはさすがですし、幅広い役どころをこなせるところもすごい。しかし何かもの足りない気がするのも確か。年齢的にはまだ40代半ば、落ち着くには早すぎます。もう一度デヴィッド・リンチあたりと組んで欲しいと思っているのは私だけはないと思いますが。

・『ノウイング』公式サイト:http://knowing.jp/

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『地方の行方』(No.386/2009.07.10)

今週末にせまった都議選を控え、街の選挙活動も永田町の動きも活発になってきましたね。このところテレビでは、国政に打って出たい宮崎県の東国原知事と、次期衆院選に向けた「首長グループ」結成を目指す大阪府の橋下知事の動きが結構報じられていました。”地方分権”って聞こえはいいし、どこか生活者レベルでも”自分のことは自分で”という自立した動きにつながりそうな予感はあるのですが、残念ながら、いずれの知事も個人的に応援はしているものの、では、具体的になぜ地方分権が必要なのかがあまり見えてきません。ここが一番重要なはずなんですが。

さらにその人気にあやかろうとする政党(与野党問わず)の姿勢も残念。各自治体とうまく連携することが、国民の生活の何にどういう風に影響するのか、そこが伝わらないと、こちら側は全然盛り上がらないというか、取り残されている感すらあります。ある程度知名度が選挙を左右するとはいえ、とにかく有名な人に取り入ろうとする姿に引いてしまう人も少なくないのではないでしょうか。

先般、2日間で100万人の動員記録を打ち立てた映画「ROOKIES(ルーキーズ)」。映画公開前には、テレビをつけてTBSにあわせるとどの番組にもキャストが出演して映画を宣伝している、という状況でした。さすがの過剰宣伝に批判の声もあったようです。

自分の人生を賭けてよりよい生活・政治を目指す姿勢は見ていて心打たれる時もありますが、周りの迷惑を省みない一心不乱な”広報活動”は見ていて気持ちのいいものではありませんね。”広報”も結局何かを”伝える”ための手段ということですから。これは政治の世界に限らず、ですが。

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『キング・オブ・ポップ』(No.385/2009.07.03)

個人的に最も尊敬するエンターテイナーであり、80年代に世界中の人々を熱狂させた大スター、マイケル・ジャクソンが2009年6月25日に永眠されました。享年50歳。
80年代の始めに私の姉が短期でアメリカにホームステイしたことがあり、お土産代わりに日本に持って帰ってきたのがマイケル・ジャクソンとDEVOでした。アメリカの、そして黒人音楽の未来を担う一人の若者のあまりのかっこよさと、アメリカが生んだ、世界に誇れるテクノ・バンドのクールさ、このふたつに人生が変わるほどの衝撃を受けたのを覚えています。

とりあえず、DEVOの話はさておき、当時のマイケルは出世作となったアルバム「オフ・ザ・ウォール」をリリースしたばかり。まだまだ初々しさの残るマイケルの笑顔がジャケットとして使用されたそのアルバムには、メロディ、リズムともに完璧なポップ・ソングが詰め込まれていました。名プロデューサー、クインシー・ジョーンズと、稀代のソングライター、ロッド・テンパートンのコンビに、一歩も引けを取らない存在感は末恐ろしく感じたものです。
願わくばもう一度、話題性によるものではなく、その圧倒的な楽曲のチカラで全米のヒットチャートを席巻して欲しかったという気がしますが、奇しくも、今まさに、過去の作品が売れまくっていて、それはそれでファンとして非常に嬉しい現象であります。

音楽やパフォーマンスが、いかに演出されたものであろうと、計算されたものであろうと、とにかく酔いしれたもの勝ち、マイケルはそう思わせてくれる数少ない存在でした。ポップでわかりやすいことが、そのままかっこよかった時代。そんな希望に溢れた時代に生み落とされ、そして自ら時代を引っ張ったポップ・スター、これだけ多様化してしまった世界では、もう二度と生まれることのない唯一無二の存在かもしれません。

ありがとう、マイケル。

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