『音楽の必要性』

曜日の夜にぼんやりと満月を見上げていると、何とはなしに、大学生の頃、友人と”音楽がある”ことの是非について話をしたことを思い出しました。”音楽がある”というのは人生において音楽が必要かどうかという意味ではありません。それは私にとって絶対必要なものだからです。これは言うまでもない。その時に話をしたのは、BGMとして流れる”音楽”のことです。確か二人でどこかの料理屋でご飯を食べている時にたまたま店内に流れる音楽のボリュームが大きかったことに端を発したのではなかったかと思います。
細かな話の内容は忘れてしまいましたが、結論は「時と場合による」というまったく面白くも何ともない結果になったことだけは覚えています。満月を見ながら、そんなこともあったなあと思い耽っているうちに、ふと、あえてどちらかに白黒つけてみようかと思いました。

そうやってあらためて考えるとこれがなかなか難しい。「時と場合による」というのは至極正論であるからです。しかしそれでも考えを進めてみました。
まず考えたのは、その場にいる人数が音楽の必要性に影響を与えるかどうかということ。そういう意味では影響はないですよね。一人でいようがみんなといようが音楽がいる時はいるし、いらない時はいらない。では場所はどうでしょうか。これもあまり関係なさそうです。例え自分の家でくつろいでいる場合でも、走って横断歩道を渡っている場合でも、音楽を聴きたいときは聴きたいものです。
では、私たちはどういうときに音楽を必要と”しない”のでしょうか。個人的には音楽が要らないと思うのは、仕事に集中したい時とか何かゆっくりと考え事をしたい時です。主体的に何かをしたい時。つまり音楽を必要とするのは、その場所において自分を主体に置きたくないときではないかと思います。何かに自分自身をゆだねたり、任せたりしたい時。もちろんこれは個人的な考えで例外はあると思いますが、例えばお酒を飲んで気分が良くなって、嫌なことを考えたり悩んだりしたくない時に音楽が必要となる。また、同じ仕事をしている時でも掃除機をかけているときなんかは音楽が必要です。
そういえば昔からどこの国でも肉体労働の現場に歌はつきものでした。戦争に行く人たちを送り出すための音楽もあったし、古代エジプト時代には音楽が鎮痛剤や精神療法のひとつとして使われていたという話もあります。
逃避というにはあまりにもポジティブな、人間の心や魂をどこかに連れて行ってくれるチカラが音楽にはあるのかもしれません。

今、このコラムを書いている最中は、主として肉体ではなく脳を使っているので音楽を流していません。でもこれが書き終わったら私はきっと冷蔵庫から缶ビールを出してプシュッと開け、さあ何を聞こうかとCDラックを覗き込むでしょう。
ということで、結局白黒ついてないですが。

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