『2005年・信じるもの』

005年もすでに7日目です。ということで少し遅いかもしれませんが、本年度最初の配信なので、ここはやはりご挨拶を。あらためて、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

年末、漫画の文庫本を1冊買いました。諸星大二郎氏の自選短編集『汝、神になれ鬼になれ』(集英社文庫)です。単行本で発売されたシリーズが昨年11月に文庫化されていたのをたまたま本屋さんで発見したんです。民話・寓話からSFまで、主として異界を舞台にした作品群は圧倒的なオリジナリティを感じさせます。
内容的には、主人公が突然この世ではない世界に紛れ込んだり、村祭りの最中に鬼が現れたりと、現実離れした話が多いのですが、他に類を見ない絵作りもあってかリアリティを失わないんですよね。

で、その『汝、神になれ鬼になれ』に収録されている作品に『闇の客人(まろうど)』という一編があります。某県にあるとある町が舞台の作品です。その町は貧困にあえいでおり、町おこしのために百年も前に断絶した祭りを復活させます。その際に新たに大きな鳥居を建てるのですが、その鳥居を町の鬼門に建ててしまい、鬼を招いてしまうのです。鬼は町で大暴れし、災いをもたらしますが、人の目に見えないため、町人たちはなすすべがありません。祭りに参加していた人々は昔から伝わる鬼踊りを踊りますが、昨今では誰も正しく踊れない。ところが、そこにたまたまいた老人が昔ながらの鬼踊りを踊ると、鬼がその老人の踊りに操られておとなしくなります。そして最後は二人とも異界に消え、町は救われるというストーリー。
こういう民話的な話を元旦のような日に読むと、その意味や目的について改めて考えさせられます。
新年を祝って家の門前等に飾られる「門松」は、その年の神さまをお招きするための目印だそうです。また、この時期神社でよく売られている「破魔矢」は厄除けを意味するもの。もともとは弓の技を試す行事に使われた弓矢に由来し、この矢を「はま矢(浜矢)」、弓を「はま弓(浜弓)」と呼んだことから、「はま」が「破魔」に転じ、やがて正月に男児のいる家に弓矢を組み合わせた玩具を贈る風習が生まれたとのこと。その他、正月に限らず現在各地で今も行われている行事や祭りも、すべて何らかの意味や役割があるのでしょう。しかし、昨今はおせちがコンビニで売られる時代。さまざなま風習はほとんどが形骸化しています。それは、私たちが”信じる”ということを軽視してきたからからもしれません。もっと科学的なものを優先して信じるようになったと言ってもよいでしょう。それでも、”信じる”という行為そのものは放棄しようがありません。
私たちは伝説と呼ばれるような言い伝えを信じなくとも、自分が今日乗る電車や車が事故を起こさず走るという事を信じているのではないでしょうか。明日もあさっても家のテレビがちゃんと映り、電話が鳴ることを信じているのではないでしょうか。それが意識的であれ、無意識的であれ。つまり私たちは何かを信じずにいられない存在なのです。そして、今、災いも欺きも多いこの時代、何を信じるかが問われている気がします。それは、狂信的な宗教ではないし、お金ではないし、ましてや銃や武力ではないはずです。
さて、私たちが今の時代に信じられるものは一体何でしょうか。

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