No.140
タイトル
さすらいの二人
(原題)
PROFESSIONE:REPORTER
監督
ミケランジェロ・アントニオーニ
キャスト
ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー、イアン・ヘンドリー他
制作
1974年/イタリア、フランス、スペイン
ジャンル ドラマ
上映時間
124分
評価
★★★★★
<ストーリー>
ゲリラに接触すべく砂漠をさまようテレビレポーターのデヴィッド(ジャック・ニコルソン)。途中、ホテルで商社マンと名乗る男と出会うが彼は謎の死を遂げる。デヴィッドは彼になりすまし、妻や仕事等、現実社会の束縛からの逃避を試みるが、男が武器商人だったことからトラブルに巻き込まれてしまう.....。

<コメント>
音楽が素晴らしい映画というのは特別に強烈な印象を残してくれます。パッと浮かぶだけでも『パピヨン』(1973)、『モア』(1969)、『ブルース・ブラザーズ』(1980)等々等々。アントニオーニの作品も音楽が素晴らしいものが多く、特にジャズやロックが好きな私としては、やはり『欲望』(1966/ハービー・ハンコック)や『砂丘』(1970/ピンク・フロイド)なんかが強烈に印象に残っているのですが、彼の作品の中でどれが一番かと聞かれるとこの『さすらいの二人』になります。この作品は音楽や映像の素晴らしさに加え、ジャック・ニコルソンの演技も必見。
個人的にはリアリズムを追求する映画に惹かれる傾向にありますが、アントニオーニの作品はリアリズムを追求しながらも映像的には非常に詩的なリズムがあって、現実と幻想の境界線が見え隠れするところが好きです。作中によく挿入される観念的かつ断片的なシーンは、見ている最中は浮遊感にも似た”社会からの逸脱”感を提供してくれるのですが、作品を見終わった後にそれらのシーンが現実的な問題提起の要素となって繰り返しフラッシュバックしてくるのです。考えてみれば、現実の社会は確固たる存在のものからのみ構成されているわけではないですよね。夜空に浮かぶ月が異常に近く、大きく感じられるときもあるし、道端に咲いた花が驚くほど鮮明な色でその存在を主張しているときもある。そういう瞬間にめぐり合ったとき、世界はそこにあるのではなく、私たちの感覚を通して存在しているのだということに気づかされます。そして、それはアントニオーニの映画を見終わった後に襲ってくる感覚と似ている気がするのです。
『さすらいの二人』では冒頭から現代人が自然に翻弄される様が綴られています。ベルナルド・ベルトリッチの『シェルタリング・スカイ』(1990/原作ポール・ボウルズ)やヴィム・ベンダースの『パリ・テキサス』(1984)でも現代人は砂漠に翻弄され、さまよい続けます。現代人が抱えた乾いた孤独は、乾ききった砂漠の上で吸い取られること無くより一層干上がっていきます。本作の主人公は、たまたま近くにいて死んでしまった男と入れ替わることによって自分を社会的に抹殺し、自らが作り上げた世界に生きることを”選択”します。しかし、社会では全く違う人間になることは出来ても、何らかの拘束を受けなければ存在することは出来ません。結局は社会的にも肉体的にも死ななければ解放されることは無いのです。
この作品では主人公はある意味で失い続け、死に続けていると言えると思います。有名なラストのロングショットの後に、二人の女性が残した言葉の受け取り方で彼をさらに殺すことも出来るし、”存在した”という意味で生かすことも出来る。最終的に人間に残されるものが孤独だと悟ったとき、それに絶望するのか、他者とのつながりに希望を見出すのか。この作品はその選択を問いかけているような気がしてなりません。

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