| D-Column |
『日本を磨く』(No.228/2006.06.30)
6月26日付の日本経済新聞のコラム『日本を磨く−美と徳を見つめて−』の初回に作家の五木寛之さんが登場。内面から日本を磨く道筋について言及されていました。
今の日本を「物質的には豊かだが、心貧しい国」と定義、一番欠けているものは「人間らしい感情」であり、「情感トレーニング、すなわち”養情”が大切」と説いていらっしゃいます。五木さんらしい情感あふれる言葉に共感しましたが、最も響いたのは、「今の日本は戦後最悪の状況にあると思う。人の命がこれほど軽くなった時代はないのではないか」という言葉。戦中、戦後を経験された方にとって、まさにそれが”実感”なのでしょう。
私がまだ大学生で月1万6千円のボロアパート(大家さん、ごめんなさい...)に住んでいたとき、ちょっと変わったおじいさんが管理人でした。年齢相応の”老人力”が備わった方で、例えば、冬に何人かでアパートの一人の部屋のコタツに入っていたところ、おじいさんがやってきて「やっぱりストーブがあるから集まっとるんやな」とラジカセを指差したり、私が部屋に鍵を閉めこんで(ノブのロックボタンを押してドアを閉めるタイプでした)、合鍵をもらいに行った際、「あんたのドアは合鍵がない、えらいことしてくれた、ドアを壊すしかない、どうしてくれる」と散々怒鳴り散らした後、すうっと奥に行き、「はい、これ」と何食わぬ顔で合鍵を渡してくれたり、他にも「1万円事件」や「そろばん事件」「フライパン事件」等々、このおじいさんのエピソードだけでも話は尽きないのですが、そんなおじいさんでも、その口からシベリアに抑留されたときの厳しい生活が語られると、私たちの心に戦争経験者の壮絶な人生が伝わり、おじいさんに対する尊敬と畏敬の念が芽生えたものでした。
今の時代に、お年寄りに対する尊敬が薄れてきているのだとすると、そういった経験談に触れる機会や状況が無くなってきていることが原因なのではないでしょうか。お年寄りに限らず、いろんな世代の人々が触れ合い話し合うこと、そんな当たり前のことがとても難しくなったり珍しくなったりしていることが、どれほど異常な状況なのか。それに気づくことが”養情”の第一歩のような気がします。
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『肝炎訴訟』(No.227/2006.06.23)
先週から今週にかけて、結果が気になっていた訴訟が2つあります。ひとつは、集団予防接種が原因でB型肝炎に感染したとして、札幌市の患者さんらが国に損害賠償を求めていたケース。もうひとつは出産時などに止血剤として使われる血液製剤「フィブリノゲン」でC型肝炎に感染したとして、患者さんらが国と製薬会社に賠償を求めていたケース。いずれも原告側の訴えが認められました。
このコラムでも何度か書いていますが、私自身、十数年前にC型肝炎を患ったことがあります。インターフェロン治療を行い、現在は一応完治した状態ですが、結局、感染した原因はわからないままです。当時の担当医さんの説明では、母子感染によるものやウイルスに感染している人との血液交換(集団予防接種で針を交換していない、性交渉等)等、が考えられるとのことでした。セカンド・オピニオンというほどではないのですが、他の病気で違う病院にいく度に、お医者さんに説明を求めましたが、基本的にはほとんど同じでした。
結局、自分の記憶の中には原因となる心当たりがないまま(いろいろ考えても特定のしようがありません)、結果的に治ったのでそのままにしていたのですが、何とも釈然としないまま今に至っています。
まあ、当時はやっとインターフェロンに保険が適用されたような時期で、病気そのものに関する情報も少なかった気がします。解明が進行中の病気を取り巻く状況とはそんなものなのでしょう。しかしながら、今回の訴訟のケースは別。本来感染するはずの無い人が感染してしまったわけですから。しかも、こういう問題では、大体において「国」や「企業」の思惑が絡んでいる場合がほとんどなので、許しがたいものがあります。ヤコブ病然り、AIDS然り。そういう意味で今回の結果は、いろいろと問題もある(製剤の投与時期で賠償に線引き−C型肝炎訴訟)ようですが、とりあえず良かった。
以前、企業を社会のリスクと捉えた映画『ザ・コーポレーション』を紹介しましたが、DVDが本日(6月23日)発売になるようです。いずれレンタルビデオ店にも登場するでしょう。肝炎等の病気に関するテーマはありませんが、遺伝子組み換え牛成長ホルモン薬品に関する、企業の隠蔽事件等は取り上げられています。ご興味のある方、ぜひご覧ください。
・厚生労働省/C型肝炎について
(http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou09/02.html)
・ザ・コーポレーション
(http://www.uplink.co.jp/corporation/)
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『象の購入』(No.226/2006.06.16)
村上春樹氏の短編小説集『象の消滅−短篇選集 1980-1991』(新潮社)を買ってしまいました(前回コラム参照)...。
個人的にも好きな作品が結構網羅されていて楽しいです。かばんに入れっぱなしにするにはもう一回り小さければ...と思いますが、それでも装丁もシンプルで紙の質感も良いです。悩んで買っただけに嬉しい。
でもって、『レーダーホーゼン』の話。
再翻訳されたからと言って内容が大きく変わるわけではありませんが、それでも読み心地はそれなりに違った気がします。『回転木馬のデッドヒート』の方は、他人の心の中にある微妙な感情の揺れに、”僕”がそっと寄り添う感じなんですが、『象の消滅』の方は、日常の中に入り込んできた異形の物語に、”僕”の感情そのものが揺さぶられる感じです。
で、あることに気づきました、『回転木馬〜』の方は、最初に「はじめに・回転木馬のデッドヒート」として、著者自身による前書きがあります。前書きは「ここに収められた文章を小説と呼ぶことについて、僕にはいささかの抵抗がある」という言葉から始まり、それは「さまざまな人々から聞いた話を文章にした」からで、「このような文章を小説と呼ばず、仮に”スケッチ”と呼ぶことにしよう」、と続きます。そして、他人の話を聞くことが好きな自分が写し取った”スケッチ”は、小説に使い切れない”おり”のようなもので、その”おり”とは無力感のことである。我々がどこにもいけないというのが、この無力感の本質であり、それはつまりメリーゴーランドのようなものなのだ、と締めくくられています。
私が村上春樹氏の小説に惹かれる理由が、この前書きに凝縮されているのだと改めて感じました。そして、その後に続いて始まる『レーダーホーゼン』を、この前書きとあわせてひとつの作品として読んでいたのだとも思いました(ちなみに『回転木馬〜』の中では『レーダーホーゼン』だけが書き下ろし)。
私たちが現代社会で生活を続ける際に、自分自身の中に知らない間に積もり続ける”おり”があるのだとしたら、それはどこでどのような形で排出されるのか、またされないのか。その”おり”は、回転木馬に乗っている間は永久になくならないのかもしれません。
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『象の消滅』(No.225/2006.06.09)
小説が書店に並ぶサイクルには、何か私にはわからない順序やバランスがあるのだと思いますが、このところ近所の書店に去年発売された村上春樹氏の短編小説集『象の消滅−短篇選集 1980-1991』(新潮社)が平積みにされています。これは今まで英語圏で出版されてロングセラーとなっていた作品集の”日本語版”で、インタビュー等が新たに追加されたもの。発売されてからずっと買おうかどうか迷っていた作品ですが、基本的には初期の作品がほとんどなので、それぞれ収録されている単行本を持っているんですよね。だから内容がそのままなら買う必要は無いのですが、インタビューが追加されていたり、新たな訳で新バージョンになっている作品もあるんです。商売がうまいなあ。それでも買わずに今まで来たのですが、こうやってたくさん積まれていると...。しかも装丁がペーパーバックっぽくていいんですよね。う〜ん。
私は高校生の時にリアルタイムで『世界の終わりのハードボイルド・ワンダーランド』を読んで以来の春樹ファンですが、常に新作を待ち望み、出れば速攻で買って読む、という感じではありません。極端に言えば、『世界の終わりと〜』と『レーダーホーゼン』(『回転木馬のデッドヒート』に収録)の2作に出会えたことで満足しており、この2作があれば良いのです。かなり偏っていますね。しかし、小説に限らずどのような種類のものでも割とそういう付き合い方をするところがある気がします。もちろん他の作品も読んでいますし、中にはかなり好きなものもあります。しかし、結局は『世界の終わり〜』に出てくる”夢読み”や『レーダーホーゼン』の他人の話のように、社会や人間の感情に存在するぼんやりとした虚無の語り部としての村上春樹作品が好きなのかもしれません。
ああ、そういえば、『象の消滅』には『レーダーホーゼン』も収められていました。再翻訳された新バージョンで。うむー...。
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『今村昌平監督死去』(No.224/2006.06.02)
カンヌ国際映画祭のパルムドールを2度受賞する等、世界的にも高く評価されている映画監督の今村昌平さんが、5月30日都内の病院でお亡くなりになりました。享年79歳。また一人巨匠がいなくなってしまった...。
小さい頃にテレビで放映されていた、緒方拳主演の『復讐するは我にあり』(1979)の淡々とした映像が紡ぎだす緊迫感はほとんどトラウマとなっています。当時はこれぞ邦画、という感じでした(今村監督作品ではありませんが、『鬼畜』(1978)とか、『砂の器』(1974)とかもありましたね)。後から考えると日本人の持つ湿り気のある静かな狂気が凝縮されていた気がします。
他にも『神々の深き欲望』(1968)や『楢山節考』(1983)等の土俗的で突き抜けた作品はもちろん、『赤い橋の下のぬるい水』(2001)のように、ちょっとシニカルでエロでユーモアを含んだ作品も好きでした。『赤い橋の下のぬるい水』を見たとき、「ああ、やっぱりフランス映画だなあ」と納得(?)した記憶があります。
私がもともとドキュメンタリー好きということもあるのかもしれませんが、今村監督の作品は、ただ単に手法としてのドキュメンタリーということではなく、人間の根源的な姿勢(単純に本能ということではなくて)を描いているという意味で、リアリティを感じます。常に何かを隠し、覆い、見ないようにしてきた私たちの社会。一方で、人間は、常にそういったものを探り当て、引き剥がし、見ようとします。その是非はともかく、少なくとも私たちはみなそういう生き物だということは間違いないのではないでしょうか。
ちなみに、一昨日、たまたまテレビ東京の番組『ワールドビジネスサテライト』を見ていると、最近”濃い”味付けの食べ物が流行っている、という話題を取り上げていました。現実と仮想の境界線がなくなり、より本能的、本質的なものが求められている時代なのだとすると、今村監督の作品群があらためて評価される気がします。
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『ブロークン・フラワーズ』(No.223/2006.05.26)
ジム・ジャームッシュ監督の最新作『ブロークン・フラワーズ』を観ました。かつてプレイボーイだった中年男が受け取った一通のピンクの手紙。開けてみると、かつての恋人であろう女性からで、19歳になる隠し子がいるとの内容。署名も住所も無く、誰からの手紙か見当もつかないが、探偵まがいの親友から、かつて関係のあった女性を訪ね歩くよう諭され、不本意ながらも差出人探しの旅に出る、というストーリー。
コーヒーとタバコをテーマにした前作『コーヒー&シガレッツ』はモノクロ映像も素晴らしい最高の出来でしたが、今回もすごい。相変わらずキャスティングと音楽の使い方がうますぎ。また、サントラが欲しくなります。いつものようにフェード・アウトで真っ暗になって各場面が閉じられるのですが、そのタイミングと主人公の中年男を演じるビル・マーレーの微妙な演技、そして前半でぐいっとひきつけた後の余韻(親友役のジェフリー・ライトの功績大)、これらの要素が重なり合って、何ともいえないゆるーい波を起こしています。ドン・ファン的中年男が経験する、人生半ばの揺れ。うまい。
私たちは人種や年齢や住んでいる場所によらず、人生を歩いていく上で絶対に変えられないものがあります。それは過去です。記憶はある程度都合よく変更したり、忘れたりすることが出来ます。しかし、過去に起こした行動やその結果は変わりません。私たちは過去でも未来でもなく、現在を生きているように思っていますが、実は、日々自分の過去を作り続けているだけなのかもしれません。そして、未来はともすればいかようにも変えられるし、好きなように作り上げることが出来るかのような錯覚に陥りますが、未来とは自分が作り上げてきた過去の”ほんのちょっとした”延長に過ぎないのでしょう。それはあたかも遥か彼方から何日もかけて足元に届くさざ波のように。
・ブロークン・フラワーズ(http://www.brokenflowers.jp/)
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『ものごとの意味』(No.222/2006.05.19)
特定の思想や宗教を信奉しているわけではありませんが、私は『すべての事に意味がある』と考えるタイプです。人との出会い、思いがけない出来事、予想通りの展開、突然の不幸。大きなこと、小さなこと、すべてに何らかの意味が内包されていると思います。とは言え、思惑通りに行かないことや自分の失敗等を必要以上に前向きに意味づけしたり、すべての出来事を難しく考えたりするのは好きではありません。すべての事に意味があると考えることは、自分自身の存在にも意味があると考えることで、まあ、その方がいろんなことが楽しいし、生きやすいんじゃないか、という程度のものです。
デヴィッド・リンチ監督はとあるインタビューで『映画とはさまざまな要素の集大成で、すべてに意味がある』と答えています。確かにリンチ・フィルムは意味ありげなショットに満ちていますね。中には本当に意味があるのかどうか疑問に思うキャラクターや行動もありますが。いずれにしても、自分が遭遇するすべてのことに関心を持てば、あの時のあれはこういうことだったのか、とか、これとこれがこういう風につながっているんだな、等々、なるほどと思うことも多く、人生というのはなかなかよく出来ているもんです。
で、突然ですが”ピロリ菌”。胃酸にも溶けずに胃の中に生息し、まだまだ分からないことが多いながらも、胃炎や胃潰瘍等の病気の原因ではないかと言われている細菌です。日本人の2人に1人は感染しているという調査結果もあるようです。私は慢性胃炎と診断されたことがあるため、自分の胃にこのピロリ菌がいるのではないかと疑っているのですが、このピロリ菌にも何か”意味”があるのかも?とネットで調べてみました。...残念ながら、ピロリ菌感染者には花粉症が少ないと言われているらしい、という噂は見つけたものの、現段階では基本的に人間には有害という結論が下されているようです。うーん、やっぱりそうか。
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『旅カメラ』(No.221/2006.05.12)
2006年3月11日、友人たち3人とカメラを使ったプロジェクトを始めました。『旅カメラ - floating camera -』です。
使用するのは、どこにでも売っている使い捨てカメラ『写ルンです(39枚撮り)』。このカメラを受け取った人は、自分が最も幸せだと思う瞬間を1枚だけ撮影します。そして、写した日付や場所を用紙に記入して、自分の”友達”に渡します。受け取った人は同じように撮影し、また友達に渡します。そうやっていろんな人の手を渡り歩き、しあわせの瞬間を集めて回るカメラ・プロジェクトです。最後まで撮り終わると、着払いで私のギャラリーに送っていただきます。でもって現像して展示します。
”幸せ”の基準については全く個人の判断に委ねられますし、次に渡すのは、あくまでもちゃんと話をして趣旨を理解してくれた”友達”です。それでも、結果的に40人近い人々の間を渡り歩くわけで、無事戻ってくるかどうかわかりませんし、戻ってきたとしても写っているかどうかもわかりません。また、1人あたり1ヶ月程度要すると考えると、戻ってくるまで3年ほどかかる計算になります。いろんな意味でスローなプロジェクトです。
なぜ今、ここで紹介したかというと、先日2人目である私が撮り終わったからです。
禅僧で作家の玄侑宗久氏は”幸せ”とは”海の幸”や”山の幸”等、そもそも物質であるとおっしゃっています。だから次から次へと欲しくなって際限がない。つまり”幸せになる”という目標を持っていること自体が”不幸”だと。なるほど、です。”幸せ”については、そういう気持ちや感覚として、もう少し拡大解釈してもいいと思いますが、いずれにしても、”幸せだ”と決めるのは自分だと思います。今回、実行してそのことをあらためて思いました。まあ、あまり難しいことを考える必要はないのですが...。なんだかんだシャッターを押すまで1ヶ月近く掛かりましたが、それでもその期間中はいろいろ面白かったです。他の人の写真も楽しみ。
ひょっとしたらいつの日か、このメルマガをご覧いただいている方の手元に届くかもしれません。その時、フィルムに収められるのはどんな場面でしょうか。
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『直感力』(No.220/2006.05.05)
19世紀フランスの印象派画家、ルノワールの描いた女性の肌を分析すると、青と赤を巧みに組み合わせ透明感を高める現代のメークに近い色遣いをしていることが、ポーラ化粧品本舗(東京都品川区)の研究で分かったそうです(5月2日付の毎日新聞より)。
同社はルノワールの「水のなかの裸婦」(1888年作、ポーラ美術館収蔵)等の作品を「分光反射器」と呼ばれる装置で分析。肌から反射される光を青、緑、赤などに分解し反射率を比べたとのこと。理屈はよくわかりませんが、少なくとも当時はそういう科学的な機械が存在したわけではないので、ルノワールのような画家は感覚的に理解したのでしょうね。本当に人間の直感力と言うものはすごいものです。
将棋棋士の羽生善治名人もご自身の著書である『決断力』(角川書店)の中で、「人間の持っている優れた資質の一つは直感力」であり、「直感の7割は正しい」と。つまり「(これが一番いいだろう)と閃いた手のほぼ7割は、正しい選択をしている」そうです。
直感力を試す、というか確かめる、というか面白がる方法があります。
これは私の趣味の一つでもあるのですが、”CDのジャケット買い”です。ぶらりとCDショップに行き、ジャケットを眺めて「これは良い」と思うものを衝動買い。ジャケットが好みのものは、音的にも好きだろうというわけ。で、実際に音を聞いて「よっしゃー」とガッツポーズをしたり、「うそーっ」と落胆したり。でも、そういう買い方で素晴らしい音楽に出会うと、内容をわかっていて買う時よりも嬉しいですね。ただ、私の場合は7割とは行かず5割ぐらいの確率でしょうか。なので調子に乗っていると、とんでもない散財になってしまうので、そう頻繁にはできませんが...。
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『幸せの環(わ)・後』(No.219/2006.04.28)
”循環”が大事という話。続きです。
「買い物は投票である」という言葉があるように、私たち個人が”どこで買うか”ということは、社会を形作る大きな要因になると思います。大手スーパーやコンビニ(=大手資本ですね)ばかりで買うのではなく、地元の商店街で買い物することによって、街が活性化します。同様に、売れているとか流行っているとかいう理由で買うのではなく、自分が好きだから、気に入ったから、納得したから、という個人の価値判断に基づいて買うことによって、中小企業や個人をも含んだ(=多様ということです)循環が生まれるのではないでしょうか。
企業の製品が売れなければ、デフレ要因となりかねませんが、給料が下がってもその人個人が作るものが多少でも売れれば収入は補われます。もちろんモノを作れない人もいるし、作っても売れない人もいると思いますので、100%ハッピーになるわけではありませんが、やりたいことでお金を(少しでも)稼ぐ人、やりたいことを続けられる人の割合が増えることは、社会を豊かにする上で大切な要素だと思います。そもそも、大企業がメディアを通じて発信する情報に惑わされなければ、無意味な支出も減るでしょう。
大事なのは、個人が自分の頭で考え、循環の意識を持つこと。
『ニューヨークの古本屋』(常盤新平・著/白水社)という本にこんなエピソードが出てきます。
ブロードウェイにあるとあるラジオ局の人気番組のパーソナリティ、バーナード・メルツァーが自身の過去を語る場面。彼が貧乏学生の頃、教科書を買う金が無く、近所に住むサムという、およそ金持ちでもなくハンサムでもない老弁護士にお金を借りに行きます。彼はサムといろいろ話した末、必要な金額のお金を借りることに成功しますが、貧乏だった彼はその時にこう付け加えます。「サム、いつ借金を返せるか分からない」。するとサムは言います。「これは返すのが世にも難しい借金だ。私は利息はいらない。君は借金を返さなくていい。でも、助けを求める人がいたら、君はその人を助けてやれ。そして、君はそのとき自分に言い聞かせるんだ。『私は今サムに借金を返しているんだ』」。
私自身、会社勤めをしていた十数年前に同じような恩を受けた経験があります。お金ではなく仕事をいただいたので金額では計れませんが、あの時の感謝の気持ちは今でも忘れていません。
社会では他人のための行動は結果的に自分のためでもあります。「情けは人のためならず」とは、もともとそういう意味でした。利己的な意味だけではなく、循環ということを意識した上で個人が行動すれば、緩やかですが、確実に社会を変えていくことができるのではないでしょうか。
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『幸せの環(わ)・前』(No.218/2006.04.21)
ここ数年、”格差”という言葉がいろんなメディアで目立つようになりました。”格差”を取り上げた書籍もたくさん出版されています。
『不平等社会日本』(佐藤俊樹・著/中央公論新社)、『しのびよるネオ階級社会』(林信吾・著/平凡社新書)、『希望格差社会』(山田昌弘・著/筑摩書房)、『下流社会』(三浦展・著/光文社)、『階層化日本と教育危機』(苅谷剛彦・著/有信堂高文社)等々...。
これらの書籍によって明らかにされているのは、要するに日本はいろんな意味で”持てる者”と”持てざる者”に二分化しつつあるということ。まあ、資本主義社会である以上仕方の無いことだと思いますし、”格差”についても以前から存在したもので、その幅が広がり、顕在化したということなのでしょう。
例えば、裕福な人たちは教育にお金を費やす比率が高く、結果的により裕福に。低所得の人たちは、ゲームや娯楽に少ない収入の多くを費やし、結果的に低い階層のまま。将来に希望を持てない若者は現実から目をそらして夢に走る、親の庇護が無くなり経済的に破綻するその日まで...。
これらの書籍を読んで共通しているのは、残念ながら効果的な打開策はないということです。うーん、難しい問題ですね。ただ、解決策になるかどうかは別として、緩和策として個人的に考えていることが二つあります。
ひとつは、個人が”やりたいことをやれる”メディアやインフラの整備。これに関してはインターネットの発達等もあり、すでにそれなりの媒体・場所があります。もっとやりようはあると思いますが、まあとりあえずはよい。で、もうひとつは、”やりたいことで稼げる(月1〜5万円程度)”メディアやインフラの整備。年収300万円を基準に考える人もいますが、これからは年収100万円台の人が増えるでしょう。その時にその中でいかに楽しく暮らすか、ということを考えながら生きても、実際に自分の努力が報われる(=社会化、貨幣化)現実が伴わなければ生きづらさは消えないだろうと。
もちろん、そういうインフラが整備されても、みんなが儲けられるわけではありませんが、少なくとも技術・能力的な中間層(大ヒットはしないけれど、確実に対価を得られるレベルの物を提供している人)が評価されることにはなると思います。つまり、必要なのは”個人の努力が相応に報われる仕組み”を作るということ。
昨今、個人的に雑貨製作やアート表現を行う人が増えています。その中には実際にお小遣いを稼ぐ人たちも現れています。一攫千金ではなく、現実的なお小遣い稼ぎ。金額自体は少なくても構いません。これがもっと実現しやすくなれば、格差は無くならなくても、幸せな人は増えるのではないでしょうか。階層に関しては、階層を行き来できる仕組みが残っていればよいのではないかと思います。
では、そういう仕組みを作るには何が必要か。それはハードウェアではなく、”循環”という概念だと思います。
ちょっと次回に続きます。
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『民主党代表選挙』(No.217/2006.04.14)
民主党は7日午後、都内で両院議員総会を開き、新代表に小沢一郎氏を選出しました。マスコミ等では最初から小沢氏有利が伝えられており、その通りの結果となったようですが、菅直人氏との代表戦の結果が119対72の大差だったというのは少し意外だったかもです。やはり今までに無い、新しい体制が求められたのかもしれません。
小沢氏に対しては、個人的にいい印象を持っています。細川非自民連立政権の立役者として果たした実績も大きいと思いますし、自身が率いる自由党が民主党と合併する際にも、突きつけられた条件をそのまま飲むような形になり、名より実を取ることの出来る人だなあと思いました。民主党のホームページ(http://www.dpj.or.jp/)から、小沢一郎代表の就任記者会見を見ることが出来ますが、まあメディア向けの部分はもちろんたぶんにあるにしても、民主党と合流した理由として「民主党こそが自民党に代わって政権を担い、政治を官僚の手から国民の手に取り戻して、国民に夢と希望を与えることができると確信した」からだと語っています。そういう意味では長い道のりでした。ってまだ途中ですが。
いろんなメディアで小沢氏の剛腕ぶりを心配する論調も見受けられますが、小泉首相と比べるとまあどっちもどっちじゃないでしょうか。もし政権を取ったとしても結局外交ではアメリカ追随しか出来ないのでは、という懸念もありますが、それも現在の政府と比べれば...と。民主党自体は岡田氏〜前原氏という若返りが完全に裏目になり、昨今のメール問題でも大失態を晒していましたし、相変わらず”烏合の衆”と揶揄されるまとまりの無さも不安ですが、個人的に民主党に肩入れする理由は無いにしても、やはり今の国政の状況を何とかして欲しいと思います。小泉首相はもうすぐ退陣ですが、後任として最有力の阿部さんは、体裁を気にするタカ派という感じであまり好きじゃないんですよね。申し訳ないんですが。そういう人って意外と折れやすかったりするので。政権交代でも政界再編でもいいから、とにかくこのあたりで小沢氏に暴れていただきたいと思います。
ちなみに、就任会見の最後、小沢氏自身が変わらねばならないという決意表明に際し、映画『山猫』のクライマックスにおけるバート・ランカスター演ずる老貴族の台詞を引用していました。「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない。横文字で言いますと、”We must change to remain the same.”」。そのせいもあってか(?)、このところ近所のツタヤの『山猫』がすべて貸し出し中です。
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『CD紹介 - プリンス他 -』(No.216/2006.04.07)
久しぶりに、最近買ったCDのご紹介(よく考えたらおかしな日本語ですね)。
まず、プリンスの最新作『3121』。ユニバーサル・ミュージック移籍第1弾であり、前作『ミュージコロジー』から約2年ぶりです。前作も基本に立ち返ったようなソリッドな音がとても気持ちよくてかなりのヘビーローテーションでした。ちょうどアメリカでもプリンスが再評価されているなんて噂も聞いて(しかし、再評価とは失礼な)、気分よく聞いていたもんです。でもって、新作はこれまた待ってましたのエレクトリック・ファンク満載。いやー、ホント同時代に生きていて良かった。先行発売されたシングル曲『テ・アモ・コラソン』を聞いたときは、その甘さにちょっと不安もありましたが、杞憂でした。この作品はいろんな人に受け入れられると思います。プリンスは100歳までアルバム出し続けて欲しいです。
次はマッシヴ・アタックの2枚組みベスト『コレクティッド』。彼らの15年にわたる活動を凝縮した作品。何と新曲も収録されています。彼らが築き上げてきたダークで憂鬱で、とてつもなく美しい音楽が存分に味わえます。リミックス作品も多いので、彼らの全アルバムを持っている人も(自分のことです...)”買い”ですね。
こういう不透明で沈み込むような世界観って、90年代前半からずっと世界を引っ張り続けているような気がします。やっぱり彼らのセンスが時代を先取りしていたということなんでしょうか。それにしても当時のイギリスには、マッシヴ・アタックやトリッキー(元メンバー)なんかを産み落とす環境や背景があったんですねえ。
最後はヒップホップ・グループ、ジャングル・ブラザーズの『I GOT U』。試聴したときは特に可もなく不可もなく、という印象だったのですが、ジャケットのアートワークがかっこよかったのと、日本盤には、かのゴダイゴの名曲『モンキー・マジック』(テレビドラマ『西遊記』のオープニングに使われていた曲ですね。もちろん孫悟空が堺正章の方。)をサンプリングした曲が入っていたのでつい買ってしまいました。この曲最高です。シンセがめちゃくちゃかっこいい。これが収められているゴダイゴのアルバム『MAGIC MONKEY(西遊記)』はやっぱり日本の歴史に残る名盤ですね。それにしても、こういうのってどういう経緯でジャングル・ブラザーズにサンプリングされるに至るんでしょうか。『西遊記』見てたわけでもないだろうしなあ。
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『ブラック・ホワイト』(No.215/2006.03.31)
3月8日発売のニューズウィーク日本版(3月15日号)に興味深い記事が載っていました。アメリカのケーブルテレビ局FXネットワークの番組『ブラック・ホワイト』の紹介です。この番組は、黒人の家族と白人の家族がそれぞれハリウッドのメーキャップアーティストの手を借りて、黒人の家族が白人に、白人の家族が黒人に変身するというもの。人種交換ですね。でもって、それぞれの家族が今までと違う人種で普通に日常生活を体験する。ちょうど同じ時期に日本のテレビでも同番組が紹介されていたのを見たのですが、非常に面白かったです。
特に白人に扮した黒人のお父さんのエピソードが秀逸。白人になって靴を買いに行ったお父さん。サイズが合うかどうか靴を試し履き。店員が自分の前にかがんで、靴紐を結んでくれたことに驚愕。お店から出てくるなり「おい、聞いてくれ。靴屋の店員が俺の靴紐を結んでくれたよ!こんなの生まれて初めてだ」。さらにお父さんはバーテンも経験します。お客がお酒を注文。お父さんが作って出すと、お客は何気なく挨拶代わりに一言。「このあたりは黒人が少ないから子供の教育にはいい環境だよ」。
受難はこのお父さんだけではありません。黒人になった白人のお父さんが白人だけのクラブに行くと、クレジットカードを見せて支払いができることを見せなくてはならない。「白人のときはそんなことないのに」。
もちろん父親だけでなく、それぞれの家族はいろんなシチュエーションで今までにない境遇に出会います。まあ、それぞれの家族が送り込まれるところは”いかにも”なところで、やらせっぽい感じもなくはないですが、それでもリアリティがあります。こういうのをエンターテイメントに仕上げるのがアメリカのすごいところ。
ただ、差別している側の白人が黒人になって驚く様には少し疑問も。知らなかったわけでもないでしょうに、みたいな。これなら同じアメリカのTV番組『サタデーナイトライブ』で、コメディアンで俳優のエディ・マーフィーが白人のメイクをして街を歩くコーナー『白人になろう』の方が面白かったかも。エディ・マーフィーは人種問題を考えるきっかけを与えたり、話し合うための問題提起を行ったりするつもりは毛頭なく(私にはそう見えました)、徹底的に黒人の視点から白人社会を馬鹿にしていました。こっちの方が潔い。
でも『ブラック・ホワイト』、日本でも放送してくれたら見るのになあ。
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『脳の中』(No.214/2006.03.24)
このところ、いろんなメディアでとりあげられている”脳”。「脳を鍛える」「脳のトレーニング」「脳力」等々、いたるところで”脳”に関するキャッチコピーを目にします。テレビ番組でもこういった脳の体操のようなコンテンツを取り入れた番組が増えているようです。もちろん書籍もたくさん出版されています。もともとは東北大学の川島教授による一連の”ドリル”あたりが始まりだったような...。今、任天堂のコンパクトゲーム機が大ヒットし、品薄状態が続いていますが、二つのディスプレイという斬新な発想はもちろん、同教授監修の脳を鍛えるソフトの存在も、このヒットに寄与しているんでしょうね。脳ブーム、すごいです。
そんな中、最近、脳科学者・茂木健一郎先生の本が面白いと教えていただく機会がありました。早速何冊か読んでみたのですが、これがどれもハマります。最初に読んだのは新書『脳の中の人生』(中公新書クラレ)。もともと『読売ウィークリー』という雑誌の連載コラムをまとめたものなので、内容的にも噛み砕かれていて読みやすいです。ホント、脳って面白い、というか不思議。
例えば脳は「不確実性を好む」そうです。サルを使った実験で、確実にジュースをもらえる場合と、2回に1回しかジュースをもらえない場合のドーパミン細胞(脳から分泌されるホルモンの一種で、行動を決定付けたり、快感を得たりする際に放出される)の活動を調べると、ジュースがもらえるという報酬に対してはもちろん、もらえるかどうかわからない、という不確実な状況に対しても放出されたとのこと。また脳は「マイルドな多重人格者」。例えば東京で暮らしている時と生まれ育った田舎に帰った時とで話し方や気分が変わるのも、極端に言えば”人格が変わって”いるそうです。そもそも”記憶”というもの自体、脳が勝手に覚えたいものとそうでないものを選り分けるし、長年にわたって編集され続けているらしいです。
読み進めていると、まったく脳って奴は...という気持ちになってきます。私たちは日々生活する中でいろんな悩みやトラブルに遭遇するわけで、そんな時は「なかなか人生は思ったようにいかないなあ」、などと感じるわけですが、すべては脳の快感原則や思考回路によって左右されているのだとしたら、意外と私たち人間は”わがまま”に生きているのかも、という気持ちになってきます。”私たちが”というより”脳が”と言う方が近いのかもしれませんが。
そんな脳をトレーニングして喜ばせることにより、物覚えが良くなったり、ひらめくことが増えたりするだけでなく、人生も豊かに過ごせるのだとしたら、脳ブーム、ちょっと乗っかってみるのもあり、かもしれません。
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『アート・ブレイキー』(No.213/2006.03.17)
前回、このコラムで湾岸戦争を経験したアメリカ海兵隊員の回顧録『ジャーヘッド』をご紹介しました。あれから一週間、未だに原作本は私のかばんの中に入っています。ところどころ何度も読み返し、本を閉じてはいろいろと思い、考える。そんなことの繰り返しです。そんな中、日本ではずるい与党と弱い野党が戦い、お笑い芸人が一攫千金を夢見て戦い、格闘家たちが最強の称号を求めて戦っています。
突然ですが、天才ジャズ・ドラマー、アートブレイキーの話。
アート・ブレイキーは、1940年代後半から、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演。1955年から90年に亡くなるまで、ホレス・シルヴァー(ピアノ)、リー・モーガン(トランペット)、ウェイン・ショーター(サックス)など幾多の名プレイヤーを輩出したモンスター・グループ、ジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして活躍したミュージシャンです。私もジャズ・メッセンジャーズ出身のミュージシャンは大好きです。特にウェイン・ショーター。ジャケも良い。
で、先日、ご近所に住む方からアート・ブレイキーにまつわる話を聞きました。その方は、アートブレイキーが1961年に初来日した際のステージを見たそうです。この来日をきっかけに日本にはファンキー・ジャズブームが訪れます。そのぐらい素晴らしいライブだったとのこと。しかし、アート・ブレイキーはそんな歴史に残る演奏を披露した後、自分が叩いていたドラムセットから離れようとせず、その場でうずくまってずっと泣いていたそうです。周りの人が驚いて「どうしたのか」とたずねると、彼は「今まで生きてきて、こんなに歓迎されたのは初めてだ」と。
ふやけた私たちの頭を稲妻のように打ち抜く言葉。誤解を恐れずに言えば、アート・ブレイキーにしろ、マイルス・デイヴィスにしろ、黒人の人たちが音楽をやる理由はおそらく食べるため、でしょう。ここで言う食べるためとは、もちろん生きるためと同じ意味。だからこそ彼らの音楽は本物だし、人の心を揺さぶるのだと思います。そしてきっと彼らは今でもその姿勢を崩していない。
大昔から、私たちはずっと戦うことを繰り返してきました。そして現代、私たちは一体何と戦っているのでしょうか。何のために戦っているのでしょうか。戦うことが前提であり、肯定される世界である必要はないけれど、何も考えずに真っ直ぐ進んでいればいいだけの人生でなくなってしまったことも確か。もっと考えることが、行動することがあるはずです。とりあえず、今日はジャズを聴きます 。
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『ジャーヘッド』(No.212/2006.03.10)
NYタイムズが”最も優れた湾岸戦争映画の記録であるばかりか、戦争文学の最高峰である”と絶賛した若き海兵隊員の回顧録『ジャーヘッド・アメリカ海兵隊員の告白』(アンソニー・スオフォード/著、中谷和男/訳、アスペクト)を映画化した作品『ジャーヘッド』を見ました。監督は『アメリカン・ビューティ』でアカデミー賞を総なめにしたサム・メンデス。
『ジャーヘッド』の舞台は1991年に始まった湾岸戦争の終戦間近のイラク。祖父から三代続いて海兵隊員となった青年アンソニー・スオフォードの戦場での経験を描いた物語。戦場とは言え、直接敵と遭遇することはほとんどなく、射撃訓練の成果も披露する機会もない。血気盛んな兵士たちがひたすら移動し、待ち続ける日々を描いています。そういう意味でも”戦争映画”としてはかなり異色の部類です。
作品を見ると、まず軍隊の訓練や戦場での生活における細かな描写が目を引きます。訓練の内容、他の隊員との人間関係、マスコミへの対応から糞尿の処理の方法まで、いろいろと興味深いエピソードにあふれています。そんな中で主人公があらためて「僕の戦争が始まった」と感じるのは、初めて大規模な敵の攻撃を受けた時。砲弾が飛び交う中で、彼は呆然と立ち尽くすことしか出来ません。その場面で画面がスローになり、彼の顔に触れる風や砂の一粒一粒が克明にスクリーンに映し出される瞬間は映像的にも美しい。テレビやインターネット等のメディアがどれだけ戦場の実態を伝えようとしても、実際に経験するものとは違うんだ、とでも言いたげです。
相手と殺し合いをする機会がないからと言って、兵士たちの精神的なバランスが保たれているかというとそうではありません。やはり戦場にはさまざまな狂気が渦巻いています。最も怖いと感じたのは、主人公の上官を演じるジェイミー・フォックス(いい味出してます!)が、自分が海兵隊にいる理由を嬉々として語る場面。その言葉の真意はともかく、それが人間の持ちうる本質だとすると、この言葉に恐ろしいほどの狂気が含まれている気がします。そして、このエピソードは、何より戦場でニーチェやカミュに読み耽る青年が、自ら志願して軍隊に入る精神的なプロセスこそ最も恐ろしいものなのではないか、という問いかけにつながってきます。他人を殺す経験をしなくても、兵士として戦争に直接参加することは確実に人間の心に傷跡を残す。戦争とはそういうものであるということ。実際に戦場にいたことのない人間にとって、今まで見たことのない、感じたことのない戦争がここにあります。
映画としても傑作だと思いますが、原作がこれまたすごいです。アメリカに生きる若者の孤独と戦慄と絶望と忠誠が凝縮されています。まだお読みになっていない方はぜひ。どちらが先でも大丈夫です。いずれにしても本作は今のところ今年度のベスト、です。
・『ジャーヘッド』公式サイト(http://www.jarhead.jp/)
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『本、CD&漫画』(No.211/2006.03.03)
今私はCDショップや本屋さんに行くと、必ず何か買って帰りたくなります。特に昨今は新書の充実により、本屋さんに行くのがやばくなりました。新書の棚をじろーっと眺めていると、いくつか読んでみたいタイトルに出会います。でもって、1冊あたりに関しては、さほど買うのに勇気がいる値段でもありません。特にその後、電車に乗って移動するとか、ちょっと喫茶店で時間を潰す暇があるなんて場合は80%の確立で買ってしまいます。つい先日も「脳の中の人生」(茂木 健一郎 著/中公新書ラクレ)、「ヤクザに学ぶ組織論」(山本重樹 著/ちくま新書)を買いました(このタイトル、読みたくなりますよねえ?)。
最近ではこのCDと本にさらに漫画が追加されました。漫画は集めだすと本当にキリがないため、近年はあまり買わないようにしていたのですが、これも新しいメディア(というか売り場ですね)のおかげでちょくちょく買ってしまう羽目に。コンビニでの販売です。昔懐かしい名作や普段あまり読めないような作品が、ドカッとまとめて分厚い1冊に集約されて発売されているんですよ。これが読む方には何とも便利なんですよね。普通の単行本のようにカバーにお金をかけていないこともあってか、お値段も安い。
先日も仕事帰りに衝動的に1冊買ってしまいました。『ナニワ金融道』でお馴染みの青木雄二氏の短編集です。「完全版」と銘打たれたその本には『ナニワ金融道』の原点となった作品や、青木氏が若かりし頃に書いた初期作品等がまとめられているんです。個人的にはかなり好きな作家さんで、長編はもちろん、短編に味があるんですよね。『晴れたらポップなボクの生活』というタイトルで映画化される『淀川河川敷』や、最後に主人公がボードレールを引用しながらホットコーラを作る場面で終わる『ラテン喫茶の頃』等の名作が掲載されています。また、作品の合間には自身による作品解説や「貧乏脱出法」等の青木氏ならではのコラムも挿入されています。これで税込み500円はお得。この500円〜1000円あたりの価格帯って、私のような”下流社会”に生きる人間にとって一番手を出しやすい価格なのかも。気をつけなきゃ。ちなみにこの短編集、”第1弾”だそうで、いつまで続くか分からないところが不安...。でも、全部そろえるんだろうなあ。
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『メルマガ配信に関するお知らせ』(No.210/2006.02.24)
今回はメルマガに関するお知らせです。
「フライデー・ビデオマガジン」は『まぐまぐ』『メルマ!』『RanSta』という3つのサービス経由にて配信を行ってきましたが、この度『メルマ!』と『RanSta』が事業統合を行うことになりました(『メルマ!』に統合されることによって『RanSta』が無くなるそうです)。ご購読いただいている方において作業を行っていただくことは一切ありませんが、念のためお知らせいたします。『RanSta』でご登録いただいていた方には、今後『メルマ!』より配信されます。なお、『RanSta』経由『メルマ!』の方を含め、『メルマ!』より配信されるメルマガには広告が入ってしまいます(広告を載せないメルマガは有料サービスとなりました)。何卒ご了承いただきますようお願いします。
おかげさまで2001年にWEBを立ち上げ、同年11月からメルマガを発行して以降、4年が過ぎました。メルマガも現在たくさんの方々にご購読いただいています。コツコツと何かを続けることが最も苦手な私が、これだけ続けて来られたのもWEBやメルマガをご覧くださっている皆さんのおかげです。内容や体裁に関しましては、あまり変化がないように思われるかもしれませんが、文章量や突っ込み加減等、よりよいバランスがあるのでは?と常に考え、悩みながらやっています。今後ともがんばりますので、ご意見・ご感想・アドバイス等ありましたら遠慮なくご連絡ください。ではでは、よろしくお願いします。
2006.02.24追記
<お詫び>
『メルマ!』と『RanSta』の統合に関するメンテナンスの日程上、2月24日配信の「フライデー・ビデオマガジン」に関し、『RanSta』にてご登録いただいた方への配信ができませんでした(『まぐまぐ』及び『メルマ!』ご購読の方には配信済)。メンテナンスの日程上の問題(『RanSta』ご登録の方には23日、24日は一切配信できない等々)もありますが、こちらの確認ミスもあります。大変申し訳ありませんでした。『RanSta』にてご登録いただいた方にも次号以降は『メルマ!』より配信されます。今後ともよろしくお願いいたします。
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『フライトプラン』(No.209/2006.02.17)
女優歴40年を越える大スター、ジョディ・フォスター主演『フライトプラン』を観ました(彼女の映画初出演は1972年の『NAPOLEON AND SAMANTHA』=邦題『ジョディ・フォスターのライオン物語』ですが、3歳の時からCM等に出演していたそうです)。同作はいずれ三軒茶屋の映画館にも来るんだろうなあと思いつつ、なかなか話題になっていたこと(全米興行収入2週連続No.1)や、個人的にジョディのファンということもあり、とりあえず観ておこうと。
感想を述べますが、ちょっとネタばれの部分があるかもしれませんのでご了承下さい。
舞台は800人の乗客をゆったりと収容できる2階建ての巨大旅客機。ジョディ・フォスター演じる航空機設計士カイルとその娘は、突然の事故で亡くなった夫の遺体と共に帰国の途に。しかし、高度1万メートルの上空で、彼女がふと目を離した隙に、娘は忽然と姿を消してしまう...。必死の捜索にも関わらず娘は発見されず、乗務員の調査で娘の搭乗記録が無いことが判明。果たして娘は本当に乗っていなかったのか、それとも?...というのがストーリー。密室に近い設定、子供を守る母親というあたりで、どうしてもジョディ主演の前作『パニック・ルーム』と比較してしまうのですが、決定的に違うのは、前作は主人公の親子を守っていたのは完璧なセキュリティをうたう”部屋”でしたが、今回は何も、誰も彼女を守ってくれるものはありません。その分母親の強さが際立っています。
予告編が見せすぎのため、大体予想通りに進んでしまうところがちょっと残念なんですが、それでも中盤までは面白かったです。ジョディのパニックぶり、無関心な周囲の描写、アラブ人に疑惑を向ける時代性、機長役のショーン・ビーンの好演等々。後半以降はよくあるサスペンスドラマという感じで、さらに犯人の緻密なようで破綻している計画や、ほったらかしの伏線等、雑な作りが目に付いてしまいました。個人的には良くも悪くもジョディの強さが目立った作品でした。彼女は自分が出演作を選ぶ際の基準としてあるインタビューでこう答えています。「出演作については、まず私自身を感動させてくれるもの、自分自身興味がもてるものを選ぶようにしてる」。やはり自身が母親となったことも、最近の出演作の選択に関係しているのかもしれませんが、なんとなく、近年は想像できる範囲に留まっているところがファンとしては安心と物足りなさが。とりあえず、まだ日本公開は決まっていませんが、スパイク・リー監督の最新作『インサイド・マン』(ジョディは黒幕である弁護士役)でのデンゼル・ワシントンとの競演に期待します。
ちなみに本作はアメリカで公開時、全米の客室乗務員協会などの労働組合が会員に対して、同作品の鑑賞ボイコットを呼びかけたそうです。客室乗務員らを悪者として描写しているというのがその理由だったらしいですが、確かに誰が敵か味方わからない、というような設定を意識していることもあってか、乗務員の態度やサービスは最高とは言えないかも(笑)。まあ映画と言ってしまえばそれまでなんですが。
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『シネコン』(No.208/2006.02.10)
ショッピングセンターや飲食店等、さまざまな業種の店舗と映画館が一緒になった複合施設であるシネマコンプレックス、いわゆる”シネコン”。日本では13年前に生まれ、2005年には全都道府県に建設されたそうです。で、昨今そのシネコン事業から外資系が撤退しつつあるとのこと。スクリーンの多さや快適なシート等で映画の楽しさがアップ、他の事業との相乗効果も見込める等、メリットが多いと思われいたシネコンですが、スクリーンが増えた割りに集客は増えない等、マイナスの面もあるようです。そういうデメリットを計算し、利益に敏感な外資系がいち早く儲からないと判断し、引き上げているのでしょうか。
私はシネコンの経営戦略・収益性等について、さほど詳しいわけではありませんが、基本的に”箱”の規模が大きくなれば、それに比例してさまざまなコストも上がるので、たくさんのお客さんを集め続けなければならないという問題は発生するはずです。ということは、とにかく集客力のある作品=ヒット作を上映し続けなければならない。もちろん、シネコン自体が映画を作ることができるわけではありませんから、どれがヒットするか?という観点から買い付けを行うしかない。しかし結局ヒット作というのは最大公約数的な側面がありますから、そればかりでは飽きられてしまうでしょう。何かそのあたりに大きなジレンマが存在している気がします。立派なハードウェアを揃えても、そこでどういうソフトウェアを流すかでシネコンの色や存在価値が左右されてしまう。さらに、映画館は一つではないわけで、ヒット作が生まれてもそれをどこで見るか?ということもある。結局は”箱”の問題ではなくて、映画を見るという文化をどう創るかということなんでしょうね。おそらく、その施設の中でどれだけ長くお客様に滞在していただくか、お客様一人当たりの売上単価を上げられるか、というようなことを日夜考えているのではないかと思いますが、施設内で完結する企画やイベントばかりではあっという間に煮詰まってしまうと思います。広くてゆとりある場所があるが故に、自分のフィールド内での活動にばかり目が行っていてはシネコンが閑散とする日もそう遠くないかもしれません。
日本では漫画やフィギュアの例にあるように、マニアなものにも人が集まる土壌があると思います。個人的にはシネコンという施設自体にはあまり興味をそそられませんが、それでも快適に映画を見ることができるのはありがたいと思います。ぜひ、分かりやすいヒット作のみに走らず、どんどんマニアックな攻めのラインアップや今までにない上映企画の実施、映画を楽しむための情報発信等を、実施していただきたいものです。
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『信頼の快感』(No.207/2006.02.03)
前々回もそうですが、これからのビジネス・商売において、”信頼”が重要なキーワードになると何度かこのコラムで申し上げてきました。ビジネスにおいてはそもそも信頼が前提にあるわけですから、”キーワードになる”というよりも、”より大切になる”と、言い換えた方がいいかもしれません。
で、ちょっと思ったこと。最近、大学生でも在学中から会社を作る人が増えているようです。私自身がギャラリーをやっているという状況もあってか、そういう人たちと接する機会も増えていますので、実際そうなのでしょう。彼らは本当にいろんなことを勉強しています。ただ単に本を読んで知識を得るだけでなく、同じように起業を目指す人との交流会や講演会等を通して多くのことを吸収しているようです。自己実現をしたいとか、就職自体が難しいとか、将来の選択肢が増えすぎて収拾がつかないとか、とにかく”お金をたくさん得る”ということに最大の価値を置いているとか、いろんな理由があろうかと思いますが、彼らのような人が増えることは、基本的には良い傾向だと思います。しかしながら気になることが一つ。
そういう人たちはとても”ビジネスライク”です。それ自体は結構なことです。何かをこちらに提案する際にも必ずメリットを提案してくれたり、さまざまな交渉においても費用対効果、収支等をしっかり計算します。ビジネスを行ううえではそういう考え方も大切ですが、しかし、そういう考え方が伝わってくればくるほど心配になります。彼らが”信頼で物事が運ぶ快感”を味わったことがないのではないかと。もしくは、味わったことがあるとしても本当の素晴らしさを知らないのではないかと。
”信頼で物事を運ぶ”ことはやり過ぎれば単なる”なあなあ”です。さらに癒着や談合を生む温床になるでしょう。新規参入を妨げる要因にもなると思います。そこのバランスは常に考える必要があります。しかし、使い方を間違いなければ”信頼”は驚くほどの「スピード」や「安心」や「確実性」をもたらしてくれます。”信頼”がベースとなった社会では、ハードウェアやテクノロジーの進化の歩みもゆっくりに感じるかもしれません。”信頼”を担保にすることが出来れば、金融機関は今までにない景色を見せてくれるでしょう。もちろん、結局はどこかで”信頼”が破綻するから、今の世の中は、”信頼”が最重要視されていないわけです。また、すべてが”信頼”で解決できるとは言いません。しかし、だからといって、大学生だけでなく、いろんな人が”信頼”を基盤にすることが出来ない世の中だとすると、それはやはり大変な問題だと思います。なぜなら、そのためには、まず他人を信じることから始めなければならないからです。疑うのは簡単ですが、信じるのは難しい。きっと今は、それでも信じる価値がある、ということを”信じられる”かどうかが問われているのかもしれません。
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『ボブ・ディラン』(No.206/2006.01.27)
マーティン・スコセッシ監督による孤高のミュージシャン、ボブ・ディランの自伝的ドキュメンタリー『ボブ・ディラン:No Direction Home』を観ました。もともとテレビ用に作られた作品でアメリカやイギリスでは2日にわたって放映されたもの。映画は2部構成で3時間を越える長編でした。そんなこととは露知らず、たまたま渋谷の劇場近くで仕事が終わった夜に、半ばお腹をすかせた状態でそのまま観客席に滑り込んだ私としては、2時間後「第一部終了」と字幕が出たときは一瞬へこたれそうになってしまいましたが、それでもボブ・ディラン本人の生々しいインタビューの圧倒的な量に席を立つことは出来ませんでした。スコセッシはまだまだ音楽に対してはモチベーションがあるんですねえ、って怒られるか。
ボブ・ディランに関しては、私が高校生の頃にリリースされた「リアル・ライブ」というLP盤を買ったのが最初で、その頃は結構聞きましたが、それ以降は折に触れ聞いている程度です。それでも彼のカリスマ性や常に社会に向けられた視線にはずっと興味を持っていました。
映画の中で最も衝撃を受けたのは、多くのライブシーンで前半アコースティック、後半エレキとギターを使い分けていたこと。エレキギターを持った際に”フォークの裏切り者”と烙印を押された彼ですが、そんなことはものともせずわが道を進んでいたのかと思いきや、実は常に悩み迷っていたのか?と。観客も前半では”惜しみなく”、後半では”容赦なく”という感じで良くも悪くもその熱のすごさを感じました。
最近の新書、ドキュメンタリー作家の森達也さんと作家の森巣博さんの対談集『ご臨終メディア』(集英社新書)で、森さんがおっしゃっていた日本とアメリカの”民度の違い”を多少なりとも肌で感じた気がしました。森さんのおっしゃっていることとはずれているのですが。
後、ボブ・ディランも、音楽という大きな歴史の流れの中では圧倒的にオリジナルでありながら、同時に”意思を継ぐ者”という存在であるのだなあとも感じました。そういう意味では、ボブ・ディランの後に続くのは誰でしょうか。ブルース・スプリングスティーンも二ール・ヤングもトム・ペティもおじさんになってしまいました。意外とトレイシー・チャップマンとかだったりして。とにかく内容が濃いのでもう一度観たいです。家に帰れなくなるほど体力を使うと思うけれど。
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『職業の貴賤』(No.205/2006.01.20)
最近のメディアを賑わしている耐震強度偽装事件で、今月の17日にマンション販売会社「ヒューザー」の小島進社長の証人喚問が行われました。30回近くにわたる証言拒否や安倍晋三官房長官の秘書との接点の発覚等々、いろいろと波紋を呼んだ内容でした。この問題はそもそもの制度上の不備から始まり、責任の所在が分からない当事者たちの関係性、公的資金投入の是非等々、さまざまな要素が含まれていますし、いろんな見方ができる問題であると思いますが、個人的にあらためて強く感じたのは、”職業に貴賤はないけれど、同じ職業の中に貴賤はある”ということでした。
どこかのテレビ局で、建築士の方々はこの問題の話をする際、事件発覚の発端となった姉歯元建築士に対して、知り合いでなくても”さん”付けで呼ぶ、と放送していました。要するに偽装というのは、絶対に越えてはいけない一線には間違いないけれど、建築主からのコストダウンの圧力は相当なものだ、という同情の意味もあるのかもしれません。繰り返しになりますが、もちろん、越えてはいけなかった。
「貴賤」を辞書で調べると「貴いことと、卑しいこと」とあります。「職業に貴賎なし」とはよく言われますが、もともと自然の秩序にしたがって生きると言う日本人の倫理観から、人にはそれぞれに定められた相応しい仕事がある、という職業倫理が生まれたそうです。コツコツと何かを作り続ける仕事も、お金を右から左へ動かして利ざやを抜く仕事も、疑問はありますが基本的には同じ価値があると思います。仕事によってどちらが上でどちらが下ということはないでしょう。しかし、同じ仕事に携わる人間の中で貴賤はあると思います。姉歯元建築士にとってみれば、仕事の請負先が分散されていなかったこと等も、コストダウンの要求に抗えなかった理由にあるかもしれませんが、いずれにしても自分の仕事にどれだけ誇りを持って取り組んでいるか、というところが問われたのだと思います。
小嶋社長の証人喚問と同じ日に強制捜査が入ったライブドアにしてもやはり越えてはならない一線を超えてしまったのかもしれません。堀江社長の著書の中に、「みんな好きなことを仕事にしようとするから失敗する。まず儲かる商売を選ぶことが大事」という発言があります。だから仕入れコストも流通費用も掛からないネットがいいのだと。好きなだけで商売が成功しない点については賛成です。しかし、好きでもない商売に対して、どれだけ誇りを持てるか、貴くいられるかというとかなり疑問が残ります。以前もこのコラムで書いたと思いますが、やはりこれからの商売、ビジネスは”信頼”ということが最も重要なキーワードになると、これも再認識しました。まあ、当たり前のことなんですが。
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『鼻』(No.204/2006.01.13)
ある朝、突然頭の中にとあるメロディーが浮かび、その日は一日中、なんとなくそのメロディが頭の中をグルグル回っている。そんな経験ありませんか。そのメロディも最近耳にしたばかりとか、特に気に入っているとか、そういうことはほとんど関係なく、ある時は昔聞いた音楽だったり、ある時はCMソングだったり。一度、朝から頭の中をドラえもんの主題歌がリピートしていたことがありました。別に日常生活に支障が出るような度合いのものではありませんので、どうということもないのですが、何とも不思議なんですよね。そういう経験みなさんはありませんか、いや、ありますよね。
私はついこの間もこの現象にとらわれてしまいました。でも頭に浮かんだのは、音楽のメロディではなくて小説の一部分。それは芥川龍之介の小説「鼻」の最後の一文でした。「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら」。主人公・禅智内供(ぜんちないぐ)が紆余曲折を経て、長ーい鼻を取り戻して心休まった場面の描写です。この作品は確か私が高校生の時に現代国語の教科書に載っていたと思うのですが、とにかく最初と最後の文章は強烈に覚えているんですよね。しかし、何で今更浮かぶかなー。さっぱりわかりません。メロディーではないので頭の中でリピートするわけではないのですが、どうにも気になってしょうがないのです。で、結局、本屋に走って文庫本を購入して読みました。それにしても、これだけの短い文章で人間の自尊心の不安定さを描ききったのはさすがですね。それこそ、今更いうまでもないですが。
芥川龍之介と言えば、もう一つ強烈な衝撃を受けた記憶があるのは後期の作品の「河童」。「Quax, Bag, quo quel, quan?」。人間の狂気というものを初めて文章で目の当たりにした気がしました。まあ、そんなわけで、結果的に久しぶりに芥川作品を読み直すことになったのですが、それはそれで面白かったです。しかし、この”ふと浮かぶ”というのはホント不思議な現象ですね。
ちょっと嫌なのは、誰が歌ったとか、書いたとかわからないものが浮かんだ時。一日中のどに何か引っかかった気持ちなんですよね。あっ、そう言えば、”ふと”思い出しましたが、”映画『シェーン』のラストシーンで、子供が「シェーン、カムバック」と叫んだ時、実はシェーンは死んでいた”、という台詞が出てくるのは何の映画だったか...。うーん。
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『ジョージ・マイケル』(No.203/2006.01.06)
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。2006年最初の配信です。お正月はいつも近くの映画館で2本立て(普段も安いですが、1月1日は特別に2本で1,000円)を見ているのですが、今年は断念してしまいました。映画館は2館あり、いずれも元日は安いのですが、かたや『交渉人・真下正義』&『容疑者・室井慎次』、かたや『Shall We Dance?(ハリウッドリメイク版)』&『ダンシング・ハバナ』のということで、これらの作品が良い悪いではなく、単に個人的趣味としていずれも2本続けて見るのはつらいなあと(ファンの方すみません...)。ということで、今年は3日に渋谷まで足を伸ばし、世界を代表するポップスター、ジョージ・マイケルの素顔に迫るドキュメンタリー映画『ジョージ・マイケル〜素顔の告白〜(A Different Story)」を見ました。80年代UK音楽にどっぷりつかった身としては懐かしいことこの上ない内容。彼の最初のキャリアであり、世界を制覇した人気デュオ”WHAM!(ワム!)”の相方、アンドリューの老け方には度肝を抜かれましたが、それでもずっと見ているとそれなりにかっこいいのはさすが。
映画の感想としては彼がくぐりぬけてきたさまざまな栄光やトラブルの内幕が彼自身の口から語られていて興味深かったです。彼の音楽的ルーツや素質には余り言及されませんが、最初のデモ・テープに名曲「ケアレス・ウィスパー」がすでに入っていたなんて聞くと、まあ才能があったんだろうなあという感じ。ミュージック・ビデオやライブ・シーンもうまく盛り込まれていてファンや洋楽好きの方には結構楽しめる内容だと思います。
個人的にグッときたのは、親しい友人との関係性が見えたこと。幾度の挫折を乗り越えて新しいアルバムを出した際に、仲間の女性が「彼は今、本当に幸せなんだと思う」という意味の発言をしたときは、彼らが信頼し理解しあってきた歴史がリアルに伝わってきました。これもきっと彼が純粋で誠実だからではないかと思います。私は、いわゆる成功を収める人と言うのは、”今の自分”を愛することができる人だと思っています。それは日々いろんな努力や勉強を積み重ねている証拠であり、だからこそ成功を成し得ることができるのだろうと。彼が自身のキャリアの中で、今こそ自信にあふれ、楽しんでいる様子は、見ていてホッとさせられました。
さて、また新しい一年が始まります。私にとっても、ご覧いただいている皆さんにとっても、今までで一番素敵だったと言えるような一年でありますように。
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